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「夢は諦めなければかなう」のか?またはその先のこと(大澤真幸書評『スローカーブを、もう一球』)

「夢は諦めなければかなう」・・よく聞く言葉です。また逆に「夢はかなわないので諦めたほうがいい」ということもよく言われます。どちらが真実なのでしょうか。

調べる方法の一つは、諦めなかった/努力した人で、夢がかなった人/かなわなかった人を数えていくことでしょうか。

しかし私が気になったのは、その言葉が真実かどうかではなく、その言葉の使い方です。どちらも普遍的な法則のように語っているという点です。

この点について興味深かったのが、大澤真幸さんの『スローカーブを、もう一球』という本の書評での言葉です。

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多くの日本人は、オリンピックの(日本人の)メダリストを観て、「夢をもらいました」とか言う。さらに「夢を諦めずにがんばれば、必ず叶(かな)うと知りました」などと言ったりする。だが、勝者が言っていることは、「私が夢を諦めずにがんばったら、それが叶った」ということであって、誰もがそうだ、ということではない。観戦者が勝者に自分を投影して、「私も夢を諦めずに追求していれば、いずれは叶う(勝者になる)」と想像するとすれば、それは明らかに根拠のない幻想である。

確かに本来私たちが確認できる唯一のことは、「私が夢を諦めずにがんばったら、それが叶った」という、一回性の事実だけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

しかしこれがいつのまにか「誰もが諦めなければ夢はかなう/夢はかなわない」という普遍的な法則のようなものになってしまうようです。

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「勝ち」と「負け」の意味とは?

次に興味深いのが、「勝ち負け」の「意味」についてです。

一般的に勝者が幸せで、敗者が不幸だと思われがちですが、実際はそんな単純なものではないと大澤さんは指摘します。

勝ちや負けへと向かっていくそれぞれの人生には、独特のひねりがあって、勝ったか負けたかという結論には回収されない陰影がある。たとえば勝者は、勝ちを、さめた目で見つめてどこか相対化していたり、勝負とは異なる人生の側面を抱えていたりする。敗者には、敗北につきものの悲惨さがない。

勝者が必ずしも勝者ではなく、敗者が必ずしも敗者ではない。これは何をもって勝者/敗者とするのか、そこには多様な意味があるということを示しています。

それは弱者が価値を反転させるルサンチマン的なものではなくて、もっと現実に即したものであるようです。大澤さんは『スローカーブを、もう一球』という本の中で描き出されている(スポーツでの)勝者と敗者の姿から、このような認識を得ています。

たとえば『スローカーブを、もう一球』の表題にもなっている、江夏投手のエピソード。江夏投手は絶体絶命のピンチを見事乗り切り、勝利します。しかし勝者である江夏選手は、なぜか敗者のようにうずくまって涙を流したそうです。

その直後〔胴上げの直後〕、江夏はベンチに戻り、うずくまって涙を流したという」。勝った江夏が、どうして敗者のように泣いているのか。その理由は、ここでは詳しくは書かないでおこう。ただ、勝利ということについての二つの意味づけがぶつかり、葛藤をひきおこしたことが、つまり江夏にとっての勝利と(広島の)古葉竹識監督にとっての勝利とはその意味をまったく異にしていたことが原因だ、とだけ述べておく。同じ勝利に対する二つの態度の差異は、勝ちと負けとの乖離(かいり)よりも大きかったのだ。

勝者であるはずの人間が、敗者のようにうずくまって涙を流す、それこそが、勝者と敗者の意味が単純ではないことを事実として示しているのかもしれません。

「夢は諦めなければ叶う」という言葉は幻想かもしれませんし、また私たちが抱く、夢が叶うこと、勝者と敗者のイメージも、もしかしたら幻想なのかもしれないと思いました。

参考サイト:勝ち負けを超えた「人生」の真実


スローカーブを、もう一球 (角川文庫)

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