何かを決めたり、選択したりするときに「処世訓」を参考にする人もいると思います。
処世訓は昔の人が考えた生きていくうえでの教えですね。
しかしサルトル『実存主義とは何か』を読んでいたら、処世訓に従って行動をする人は「可哀そうな人」だと書かれていました。
なぜ処世訓に従う人は可哀そうな人なのか、その理由が以下です。
処世訓や金言は、第一に、ある行動を天降り的に規定するものである。しかしサルトルに従えば、人間は自由であり、つねに自分自身の選択によって行動すべきものである。したがって、処世訓を利用して行動するものは、実存主義の立場からいうときわめて哀れむべき人間である。
第二に、これらの処世訓は、人間を伝統と諦めと事大主義のなかにとじこめようとする。したがって処世訓の利用者は、人間は自分をつねに超越しなければならないとする実存主義の立場からすればもっとも軽蔑すべき部類に属するわけである。
サルトルの実存主義という立場からすると、人は自らの考えに従って行動しなければいけないようです。ですから処世訓に従って行動することは、誰か他の人の考えに従って行動することであり、ダメなのです。
しかし行動をするうえで指針になるものがどうしても欲しいという人もいると思います。サルトルによればそれは「自ら作るもの」で、あらかじめどこかにあるわけではないということです。たとえばサルトルは以下のように書いています。
実存主義の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。
これに不安を覚える人も多いでしょう。これがサルトルの言う「人間は自由の刑に処されている」という意味だと思います。
あらかじめ決められていることは何もなく、無限の自由の中から、何一つ指針もない中で、自ら選択しなければならない。そしてその選択の責任はすべて自分が引き受けなければならない。
そんな状況のにいると人は「不安」を覚えるだろうし、一人ですべて決めなければいけないので「孤独」です。この「不安」と「孤独」というのが、サルトルの言う実存主義のキーワードのようです。
しかし実際生活していると、制限だらけですよね。無限の自由なんて存在せず、限られた選択肢の中からいくつか選ぶくらいの自由しかないのが現実だと思います。
ですからこの実存主義はあくまで「こうあるべき」という考え方、態度のことであって、フィクションであると思います。しかし読んでいてとても興味を覚えるものでした。