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SF映画でありながら、現実の世界を描いているようにも見える・・入江悠監督の映画『太陽』の感想

入江悠監督の映画『太陽』を見ました。

架空の世界を舞台にしたSF映画です。しかしその世界は現実の世界を描いているかのようにも見えました。

この映画の世界は2つの人類で構成されています。一つは「ノクス」で、もう一つは「キュリオ」です。この2つの人類の特徴は大きく異なります。

世界の権力を握っているのは「ノクス」の人たちです。ノクスの人たちは裕福な人たちで、便利で快適な最先端の生活を送っています。ただしノクスの人たちが活動できるのは「夜」だけです。ノクスの人たちは体質的な問題で、昼間に太陽の光を浴びると死んでしまうのです。

一方「キュリス」はノクスに支配されている人たちです。キュリスはノクスの政策により、人里離れた田舎の村で極貧の生活を送っています。キュリスの人たちは満足に栄養も取れず、医者にもかかれないためか不健康で老化も早いのです。ただしキュリスの人たちはノクスと異なり、太陽の光を浴びることができて「昼」も問題なく活動できるのが特徴です。

おそらくより「人間的」だと言えるのは「キュリス」の人たちなのかもしれません。キュリスの人たちは太陽の光を浴びることができますし、農作業をして自分たちで食べ物を作っています。しかし世界を支配しているのはキュリスよりも人間的ではない「ノクス」の人たちであり、また実際にキュリスの人たちよりも便利で快適で幸せな生活を送っているのです。

これを現実の世界に当てはめると、富裕層と貧困層、都会と田舎の関係などが思いつくかもしれません。

また人間的であるとはどういうことか、また人間的であることと幸福の関係など、いろいろと考えさせられるようなテーマが多かったです。

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門脇麦の決定的な変化が見所

特に見所なのが、映画の終盤、門脇麦が決定的に変化する場面です。

もともと「キュリス」だった門脇麦ですが、様々なことがあり、結局手術で「ノクス」になります。その後父親と会うのですが、手術後にノクスとなった門脇麦は、キュリスだった門脇麦とはまったくの別人になります。

それまでのうつむき加減で暗かった門脇麦が、明るく垢抜けた感じになり、さわやかに「困っているキュリスの人たちを救いたい」と目を輝かせて語るのです。その姿を見て、父親は門脇麦に何か決定的な変化が起きたことに気がつきます。それで涙を流します。

それまでよく知っていた人が大きく変化し、別人になっている、しかもその人にとってはそれが幸せのようにも見える、しかし以前からその人を知っていた人にとってはその人がまるで失われてしまったかのように悲しくもある・という、そんな複雑な感情がよく表現されている場面だと思いました。

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