島の中央部への攻撃
第5海兵連隊に与えられた任務
第1海兵連隊は、戦線の左側の確保に向けて戦闘を行い、第7海兵連隊は、ペリリュー島南端にある日本軍の防御陣地を孤立させ、これを撃破しようとしていた。
一方で、ハロルド・D・ハリス大佐が連隊長を務める第5海兵連隊には、飛行場を横断して島を二分し、その後北へと進路を変えて島の東半分を確保する任務が与えられていた。
第5海兵連隊第2大隊の動き

ゴードン・D・ゲイル少佐
上陸開始から1時間後、予定時刻からやや遅れて、ゴードン・D・ゲイル少佐(訳者注:本書の著者)の指揮する第5海兵連隊第2大隊は、第5海兵連隊第3大隊の後に続いて、オレンジ2海岸に上陸した。
第2大隊は東へまっすぐ進み、砂丘と雑木林のジャングル地帯を抜け、対戦車障害物を通過して、飛行場を取り囲む開けた地の西端に到達した。
第3大隊の前線を通過した第2大隊は、飛行場南端付近の掩体壕や防空壕からの散発的な抵抗に対して西方に攻撃を加え、さらにそのやや南方の雑木林を進撃した。
第3大隊の任務は、その雑木林の日本軍を掃討しながら右側の第7海兵連隊第3大隊との連絡を維持することだった。
一方、第2大隊は、開けた地域を横断して島の反対側へ到達することになっていた。
第2大隊は、中央および右側を前進し、午後半ばまでに島を完全に横断して戦闘を行った。第5海兵連隊第1大隊との連絡を維持するため、部隊の左側面を後方へと前後にずらして配置し、攻撃の方向を北へ転換するため移動した。
第2大隊の右側の部隊は、飛行場南方の森林地帯においてしばらくの間、第3大隊と連絡を保っていたが、その後接触を失った。
対戦車壕に司令所が配置される
この時点で特徴的だったのは、オレンジ1およびオレンジ2海岸の中央および右側に沿って作られていた日本軍の対戦車壕に、多数の司令所が配置されたことだった。
その対戦車豪には、ショフナー中佐が指揮する第5海兵連隊第3大隊の司令所が設置されており、また連隊長のハリス大佐が率いる第5海兵連隊司令所も設置されていた。
その後、オリバー・P・スミス准将(師団副司令官)が指揮する師団司令部の先遣隊が上陸し、飛行場の開けた地域を見渡せる対戦車壕内へ移動した。同時に、重要な支援火器が次々と上陸しつつあった。
第1戦車大隊のM4A1シャーマン中戦車は、その3分の1が輸送力不足のため土壇場で後方に残されていたが、可能な限り早く上陸できるよう、珊瑚礁を越えるための新たな手法が用いられた。
この戦車上陸方式は、日本軍が早期に装甲戦力を投入することを予想して開発されたものであった。
海岸はなおウムルブロゴル高地の日本軍陣地と至近距離にあり、かつ高地から丸見えであったため、この火力支援と兵站支援物資を海岸へ移送することは危険だった。
しかし、ペリリューの地形上、これはどうしても避けられなかった。日本軍がウムルブロゴルから飛行場および海岸での動きを監視している限り、使用可能な火力支援を集結して調整し、一刻も早く前進する以外に選択肢はなかった。
一刻も早い前進を支援するためには、海岸で発生し続ける死傷者を受け入れざるを得なかった。 作戦初期の勢いを重視したリュパータス将軍の判断は、極めて妥当であったように思われた。
左側の部隊は、ウムルブロゴルの尾根のふもとに突撃し、速やかに島を見渡せる頂上へと到達しなければならなかった。
中央では、第5海兵連隊は、ウムルブロゴルを側面から包囲するための他の進出可能なルートを確保するべく、迅速に前進しなければならなかった。
南部の第7海兵連隊は、中央部の戦いに参加する前に、いまや分断され孤立した日本軍の部隊を迅速に撃滅する必要があった。
第5海兵連隊は飛行場を横断し、飛行場地域と東部半島(パープル・ビーチ)とを分けるラグーン(潟湖)へと進出した。
その結果、同島の当該地域を横断するかたちで、東および北、すなわち日本軍の主抵抗拠点と目されていた方向に向かって海兵隊の攻撃線が形成された。
第7海兵連隊は東と南方向へ前進し、日本軍の部隊を完全に分断することに成功した。ハネケン大佐の部隊は戦闘の真っただ中にいたが、飛行場北側の日本軍やウムルブロゴル高地からは、おおむね見つかりにくい位置にあった。
第5連隊の右側と第7連隊の左側との間には攻撃部隊が存在しない空白の地域があったが、その地域は重要ではないと思われた。
それにもかかわらず、この時点までに、上陸日での目標とされたていた到達ラインは、南北いずれの方面においても達成されないことが明らかとなっていた。
予備部隊を投入
リュパータス将軍は、目標としていた進撃の勢いが失われつつあることに危機感を抱き、予備部隊を投入し始めた。
彼はまず、師団偵察中隊の上陸を命じ、続いてすでに島内に展開している各指揮官に圧力をかけつつ、なお投入されていなかった唯一の歩兵大隊である、スペンサー・S・バーガー中佐率いる第7海兵連隊第2大隊の上陸を命じた。
島内に展開中の指揮官のいずれもが第7連隊第2大隊の投入を要請してはいなかった。
しかし、ハネケン大佐は、同第2大隊の集合地点について、他の部隊の作戦行動の妨げにならない地点を確保できると伝えた。
リュパータス将軍は同部隊の上陸を命じ、「これで打てる手はすべて打った!(shot his bolt!)」と幕僚に語った。
しかし上陸後、この混乱した橋頭堡において必要とされていたのは、さらなる兵力ではなく、部隊の移動のためのより広い空間と、より多くの砲兵戦力であることが明らかとなった。
リュパータス将軍は、自身と司令部の主力メンバーがペリリュー島に上陸する計画を立て始めた。
しかし、上陸していた師団副司令官と参謀長ジョン・T・セルデン大佐の助言により、リュパータス将軍は旗艦にとどまることにした。そして、その代わりに、セルデン大佐を上陸させることにした。
すでにこの頃には、水陸両用車の不足のため、後続の上陸部隊の投入が遅れ始めていた。
その結果、セルデン大佐の小規模な司令部部隊もバーガー中佐の第7連隊第2大隊も、上陸命令を受けていたにもかかわらず上陸用舟艇から水陸両用車に乗り換えることができず、艦艇へ引き返さざるを得なかった。
日本軍戦車部隊による反撃
このような師団の展開状況の中、16時50分ごろ、中川大佐は、あらかじめ計画していた戦車と歩兵による反撃を開始した。
すべての海兵隊指揮官は、日本軍が上陸日初日に戦車攻撃を実施する可能性があると事前に警告を受けており、十分な準備をしていた。
日本軍の戦車部隊は、飛行場の北側地域から現れ、南へ向かって進み、飛行場の開けた場所の東端に展開する第1海兵連隊の戦線正面をおおむね横断する形で進撃した。
その攻撃は、ボイド中佐の第5海兵連隊第1大隊が配置されていた第5海兵連隊の担当地区へとまっすぐに向かい、飛行場の南側一帯にまで広がった。
第1海兵連隊第2大隊と第5海兵連隊第1大隊の海兵隊員は、歩兵であれ戦車であれ、攻撃してくる日本軍に対して一斉に射撃を加えた。第1海兵連隊第2大隊の前面にいた兵士が、戦車二両にバズーカを命中させた。
第5海兵連隊第1大隊の指揮官は、自軍の戦車を前線のすぐ後ろの遮蔽陣地に配置していた。彼らは日本軍の戦車部隊に対して攻撃を開始したが、日本軍は前線を突破し、司令部のほぼ内部にまで突入してきた。
ボイド中佐の部隊は持ちこたえ、歩兵であれ戦車であれ、攻撃してくる敵すべてに対して、持っているあらゆる武器で攻撃を加えた
第5海兵連隊第2大隊の前線司令部にいたジョン・H・ガスタフソン少佐は、飛行場の中央付近で、自らの戦車小隊を待機させていた。
日本軍はまだガスタフソン少佐の担当戦区に入ってはいなかったが、それでも彼は戦車小隊を戦闘に投入した。
誰が何を撃破したのかについては証言が食い違っているが、わずか数分のうちにすべては終わっていた。
攻撃してきた日本軍の戦車はすべて破壊され、日本軍の歩兵は文字どおり吹き飛ばされた。

反撃に失敗して撃破された日本軍95式軽戦車 USMC Archives from Quantico, USA – Peleliu USMC Photo No. 2-15, CC 表示 2.0, リンクによる
第5海兵連隊第2大隊のさらなる前進
反撃が終わり、日本軍が明らかに混乱状態にあったため、第5海兵連隊第2大隊は直ちに攻撃を再開し、飛行場の東半分に沿って北へ前進した。
そして、飛行場の開けた区域のほぼ半分まで前進したのち、夜間に備えて隊形を整えるため停止した。
第2大隊は、その日で一番前進した大隊となった。
これは、大隊の進んだ地形が最も進みやすいものだったことによる。第2大隊の前進により、翌日の攻撃を支援するのに必要な砲兵と補給部隊を展開する場所を確保することができた。
しかし、その比較的前進した陣地は、右側(南側)の側面が開いており、連隊の指揮系統もカバーしていなかった。
その段階では、第5海兵連隊第3大隊は、北を正面としている第5海兵連隊第2大隊と、南向きに展開している第7海兵連隊第3大隊との間の連絡役を行うことになっていた。
指揮と統制が失われた第5海兵連隊第3大隊
しかし、17時までに第5海兵連隊第3大隊の指揮と統制は完全に失われていた。
同大隊の副指揮官であるロバート・M・アッシュ少佐は、その日の早い段階で、搭乗していた上陸用の水陸両用車が直撃弾を受けて戦死していた。
ちょうど日本軍の戦車攻撃があった頃、浜辺近くの対戦車壕に設けられていた第5海兵連隊第3大隊の指揮所が迫撃砲の集中砲撃を受け、数名の幕僚が死亡し、大隊長は後方へ送られることになった。
17時の時点で、第5海兵連隊第3大隊の3個中隊は互いに連絡を失っており、さらに左右に位置する他の大隊とも接触を失っていた。
第5海兵連隊の連隊長は、副指揮官のルイス・W・ウォルト中佐に対し、第5海兵連隊第3大隊の指揮を引き継ぎ、第5海兵連隊と第7海兵連隊の間に生じた部隊のすき間を埋めるよう、部隊の再配置を命じた。
ゲイル少佐は、第5海兵連隊第2大隊の予備部隊を右側へ移動させ、部隊のすき間を埋めさせた。
ウォルト中佐は、第5海兵連隊第3大隊の部隊を確認して戦線に組み込み、より途切れのない連隊の戦線を構築した。
日本軍による夜襲

夜間戦闘の様子、日本軍の夜襲に対しアメリカ軍の発射したパラシュート付き照明弾と曳光弾が夜空を照らしている
22時30分までに、彼は戦線の連結を成し遂げた。まさにぎりぎりのタイミングだった。
その時から、第5海兵連隊が島の中央および南部の日本軍守備隊の間に切り開いていた突出部は、日本軍守備隊から激しい反撃を受けることになり、その攻撃は夜通し続いた。
攻撃は北と南の両方から行われた。 日本軍の反撃は目立った戦果を挙げることはなかったが、攻撃は長く続き、前線の部隊は弾薬の再補給をせざるを得なくなった。
夜が明けると、海兵隊の戦線の北側には多数の日本兵の遺体が横たわっていた。
師団の戦線の他の地点では、さらに深刻な脅威となり得る日本軍による夜襲が発生していた。
ただし、いずれの反撃においても、海兵隊を押し戻すことも、あるいはまとまった兵力で戦線を突破することもできなかった。
日本軍による最も激しい攻撃は、第1海兵連隊の左側に位置するザ・ポイントの、第1海兵連隊第3大隊のK中隊の陣地に対して行われた。
南では、第7海兵連隊が、向かい合っていた日本軍の大隊から激しい夜襲を受けた。
しかし、その地点の海兵隊は十分な兵力を有しており、火力支援を要請できる通信手段も備えており、艦砲による照明射撃も可能だった。彼らはすべての攻撃を撃退し、危機的状況に発展することはなかった。
計画通りの進出距離を確保できたのは戦線の中央部だけ
上陸開始から12時間が過ぎ、第1海兵師団は計画していた戦線の全域で橋頭堡を確保していた。
ただし、計画通りの進出距離を確保できたのは戦線の中央部だけだった。
上陸部隊の陣地は、左端のものを除いて、全域で防御態勢が強固だった。 スミス将軍は前方指揮所にあって、三個連隊長全員との通信を確保していた。
戦線の左側で戦うプラー大佐の報告は、第1海兵連隊によるザ・ポイントの確保が危うい状況であることを十分に伝えてはいなかった。 それは、プラー大佐自身が情報を完全に把握していないことを示していた。他の二つの連隊からの報告は、それぞれの状況を十分に示していた。
第1海兵師団は3個の歩兵連隊に加えて、軽砲兵ほぼ3個大隊を上陸させ、すでに陣地に設置していた。
30両の戦車はすべて上陸を完了していた。浜辺では上陸支援部隊が活動していたが、日本軍からは丸見えで、断続的に砲撃を受けていた。
師団は、上陸翌日になっても、全力を挙げて戦闘を続ける必要があった。目的は、左側の重要な高地を奪取し、中央で部隊を動かせる状況を作り、南に取り残された敵を片づけることだった。
一日が終わるまでに、少なくとも2人の大佐が自分たちの部隊の状況についてひどく誤解しており、その結果として、上官に不正確な報告を行っていた。その日の終わり、ホーランド・スミス中将がようやく第1海兵連隊の指揮所に電話回線をつなぐことができた。
その際彼は、連隊は上陸地点をしっかり確保しており、おおよそ第一目標線(O-1ライン)に到達しているとの報告を受けた。ただし、スミス中将は自軍の防衛線に生じていた隙間について報告を受けていなかった。
また、ザ・ポイントでは、第1海兵連隊第3大隊K中隊がわずか38名の兵士で陣地を死守していたが、プラー大佐はその状況の深刻さを十分には認識していなかった。
中川大佐は、海兵隊の上陸を「撃退した」と報告していたが、一方で、勇敢な反撃部隊が敵を海に追い返したという矛盾する報告も行っていた。

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