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日本軍の防衛体制

日本軍の防衛体制

井上貞衛中将がパラオ諸島方面の守備を担当

井上貞衛中将

井上貞衛中将

一方、日本側では、井上貞衛中将がパラオ諸島方面の守備を担当することになった。

井上中将は、五代続く名門の軍人の家系で、中国では第14師団を率いており、関東軍から着任したばかりであった。1944年3月、彼は東京で、当時首相であり、同時に陸軍大臣でもあった東条英機と会談した。

東条は、西部太平洋における連合軍の制海権が拡大する中で、パラオ諸島を日本が保持し続けることは、もはや不可能であるとの結論に達していた。その代わりに彼は、アメリカ人にできるだけ多くの血と時間を払わせてパラオを渡すことに決めた。

東条は井上に対し、パラオ諸島へ師団を移動させ、同地に展開するすべての日本軍部隊の指揮をとること、そして可能な限り長くパラオ諸島を防衛し、アメリカ軍にその使用を許さないこと、さらに、その過程で、できる限り多くの敵兵を殺傷することを命じた。

師団は船でパラオ諸島に向かう一方で、井上は先行して空路で飛び、二日間にわたって新たな任地を航空偵察した。

その結果、ペリリュー島(アンガウル島とガブドス島にある飛行場を含む)が重要な防衛拠点となるという結論に達した。

さらに、第58任務部隊が3月に行った空襲により、アメリカが以前からペリリューに注目していたことがわかり、井上の判断は正しかったように思われた。

ウルシーに展開する第38(第58)任務部隊(1944年12月)

ウルシーに展開する第38(第58)任務部隊(1944年12月)

井上は、ペリリュー島を防衛するため、指揮官、任務、兵力を直ちに決定した。ペリリュー島はしばらくの間、ある海軍少将の指揮下におかれていた。

その少将は、配下部隊の資材と能力を用いて、地上にはトーチカや多数の鉄筋コンクリート製の建物を建設すると同時に、既存の洞窟や地下壕の改良を進めていた。これらの洞窟や地下壕は、ジャングルや雑木林、つる植物におおわれており、ペリリュー島に特有の高い隠蔽性を持っていた。

その少将が指揮する兵士たちは、これらの地下陣地に潜伏することで、第58任務部隊による3月の攻撃を、ほとんど損害を受けずに生き延びていた。

地上では、航空機や各種施設が破壊された。第58任務部隊が去ると、日本軍は姿を現し、可能な限りの修復を行ったが、引き続き地下施設の整備と強化に重点を置いた。数人の朝鮮人の労務部隊を含めても、その兵力は総計でおよそ7,000人にすぎず、その大半は歩兵戦闘に必要な訓練や指揮能力を欠いていた。

中川州男大佐の到着

中川州男大佐

中川州男大佐

中川州男大佐率いる兵員6,500名の第2歩兵連隊(増援部隊)が到着し、指揮体制が整えられた。彼らは、中国での長年にわたる実戦経験を有していた。

増援部隊は、75ミリ砲24門、軽戦車約13~15両、50口径の重機関銃100挺、81ミリ重迫撃砲15門、そして対空・対地両用の高射砲約30門を装備していた。島内にはすでに、141ミリの非常に大型の迫撃砲が多数配備されており、さらに海軍の高射砲や、大型の無誘導の海軍用砲弾を打ち上げるための簡易的なロケット発射装置も存在していた。

とりわけ重要だったのは、この連隊には中川大佐に加え、実戦で鍛えられた将校および下士官たちが揃っていたことである。中川州男大佐は、中国での戦闘における指揮ぶりにより、すでに九つの勲章を授与されており、将校の中では将来有望な人物と見なされていた。

そして、中川大佐は到着すると直ちに、地上および空中の双方から、自らが戦うことになる戦場周辺を偵察した。彼は、海兵隊がホワイトビーチおよびオレンジビーチと呼んでいた西側の海岸を、最も可能性の高い上陸地点であると判断した。中川大佐はただちに部隊に命じて、塹壕を掘り、海岸の防御陣地を作らせた。

将校間の対立

しかし、この時点で将校間の対立が起きた。

先にペリリュー島の司令官であった海軍の伊藤賢三中将(訳者中:原文ではSeiichi Itouとあるが、伊藤賢三の間違いと思われる)は、自分よりもはるかに階級が下の陸軍将校の指揮下に置かれることに強い不満を抱いていた。

井上中将はコロールから村井権治郎少将をペリリューへ送り、島の指揮を任せる一方で、中川大佐との連絡役を務めさせた。村井少将は若く有能で、高く評価されており、さらに井上中将の個人的な代理人という立場にあったため、海軍大将より上位と見なされていた。

彼は、井上中将の意図通り、ペリリューでの防衛作戦を完全に中川大佐に任せた。作戦期間を通じて、中川大佐が実際の作戦の指揮をとり、村井少将は補佐と助言は行ったが、直接指揮はしなかった。

中川大佐は、自らの任務と戦況、そしてアメリカ軍の火力について、的確に理解していた。

島の地形を最大限に活用

彼は、最大の強みである島の地形を最大限に活用することに力を注いだ。

中川大佐は、アメリカ軍の上陸時に可能な限りの損害を与え、さらにその後は、縦深防御を行えるように、部隊を配置した。ペリリューでは、防御は横方向だけでなく、上下方向にも広がっていた。

彼は、事前に東西の両海岸沖の珊瑚礁の幅および奥行きを調査し、大砲と迫撃砲の照準を設定していた。

とりわけ、西側の珊瑚礁の外縁部分に重火力を集中させる計画を立てていた。つまり中川大佐は、珊瑚礁の外縁部分で、アメリカ軍が珊瑚礁を越えるために舟艇から水陸両用車に乗り換える必要があることを見抜いていた。

中川大佐は、上陸してくる部隊に集中砲火を浴びせるため、水際およびそのすぐ内陸に射撃の照準を設定した。沖合には、ワイヤーで操作する機雷500基を敷設した。

また中川大佐は、レールや丸太で海岸の障害物を作るよう指示し、さらに対戦車壕を掘るよう命じた。

海岸沿いおよびその内陸に、機関銃陣地や迫撃砲陣地を作って部隊を配置し、使える限りの有刺鉄線を張り巡らせて、防御を強化した。海岸の北側と南側では、上陸用舟艇を攻撃できる位置に対戦車砲や対舟艇砲を配置し、それらを防御し隠すためのコンクリート製陣地を築いた。

内陸では、既に建設されていたトーチカと隣接する建物を一体化し、防御拠点として相互に支援できるようにした。さらに、これらの建物を連絡路と塹壕でつなげた。

中川大佐は、西側海岸が最も攻撃を受ける可能性が高いと判断していたが、南(スカーレット)および東(パープル)ビーチの防備も怠らなかった。

各方面の守りを固めるため、1個大隊ずつ配置した。パープル・ビーチの守りは万全で、戦いが西側で本格化した場合は、部隊を島の中央へ移動させる取り決めになっていた。

しかし、南のスカーレット・ビーチに配備された大隊は、より堅固な長期防御用の陣地を最後まで死守するよう命令されていた。

中川大佐は、ガブドス島には約500人の陸軍部隊を、ペリリュー北部には約1,000人の海軍部隊を配置した。アンガウル島の守備兵1,500名は、彼の指揮下にはなかった。

洞窟陣地の構築

兵力の大部分は、ペリリュー島中央部の珊瑚礁の尾根にある約500の洞窟、地下壕、銃眼の構築に投入された。

海軍が早くから石灰岩の尾根に掘っていた地下壕のおかげで、兵士は通常の砲撃ではほとんど被害を受けなかった。洞窟の入口に運よく当たるか、目の前から撃ち込まない限り、隠蔽された陣地や兵にはほとんど効かなかった。

地下壕には、寝泊まりする場所から司令部、病院、倉庫や弾薬庫、湧き水を使える炊事場まで、多目的に使えるよう作られていた。中には、鋼鉄製の引き戸まで備えた、厳重に隠された射撃口もあった。

中川大佐は、上陸前に極めて激しい砲爆撃が行われると予想していた。彼は、守備隊がそれを耐え抜いたうえで、米軍の進行を遅らせ、損害を与えるという自らの任務を遂行できると見込んでいた。

「我々は名誉ある死を遂げる覚悟がある」

コロール島では、井上中将が主力部隊の大半を率いて、予想されるバベルダオブ島への米軍の攻撃に対する防衛準備に必死になっていた。

実際、連合軍の「ステイルメイト(Stalemate)」作戦計画は、バベルダオブ島への侵攻を想定していた。侵攻が近いと見られる中、井上は部隊に訓示を出し、その内容は「敵を足止めし、できる限り損害を与えよ」という東条の方針そのものだった。

彼は、艦砲射撃を予測してこれに耐え抜く必要性と、地形を活用して攻撃側に損害を与えることの重要性を指摘した。実際に部隊に死を命じることはなかったが、「我々は名誉ある死を遂げる覚悟がある」との言葉を盛り込んだ。さらに、戦死し領土を敵に奪われることで、日本の勝利がさらに遠くなるとした。

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