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パラオにおける掃討作戦

陸軍の戦い方と補給の工夫

10月20日、陸軍のミュラー少将がペリリューの掃討を担当すると、彼はこの状況を包囲戦として認識し、部隊にそれに合わせた作戦行動を取るよう指示した。

その後約6週間にわたり、第322・第323歩兵連隊と第321連隊第2大隊は、その方針どおりの作戦を着実に遂行した。

彼らは土のうを攻撃手段として用いた。海岸から砂を運んで土のうに詰め、土のうを少しずつ前進させることで、日本軍の洞窟や掩体壕に射撃ができる位置まで近づいていった。戦車と火炎放射器を多用し、さらには車載式火炎放射器の改良まで行った。

道路上の燃料トラックからパイプラインを前線へ延ばし、ブースターポンプによってナパームを数百フィート先の日本軍陣地へ噴射できるようにした。

彼らは、海兵隊がヒル140まで苦労して運び上げた75mm榴弾砲の有効性に目を付けた。設置可能な地点を他に見つけて榴弾砲を移動させ、そこから日本軍が防御している洞窟へ至近距離から射撃した。

尾根上の「塹壕」で増大する土のうの需要を支えるため、工兵たちはロープウェイを設置し、砂(や弾薬・食料)をそのような山頂や尾根へとケーブルで運び上げた。

消耗戦の継続

こうした計画的な包囲戦術を採ってなお、第81師団の兵士たちは、しぶとく屈強な日本軍の防御を少しずつ崩していく過程で、依然として死傷する危険にさらされ続けた。

ウムルブロゴル・ポケットの包囲戦は、第322連隊戦闘団と第323連隊戦闘団、さらに第321連隊第2大隊の全力を費やし、1944年11月27日(上陸から73日目)まで続いた。

孤立した日本軍

この長期にわたる包囲作戦は、パラオ北部に展開する約2万5千人の日本軍という、はるかに大規模な兵力からわずか約40キロの距離で行われていた。

しかし、小さな侵入行動を除けば、パラオ北部の日本軍は米海軍の哨戒と、ペリリューを拠点とする海兵隊第11航空群の継続的な爆撃によって、事実上孤立状態に置かれていた。

日本軍守備隊の限界

米軍の前進は困難で損害も大きかったが、地下陣地に立てこもる日本軍守備隊も同様に厳しく、しかも米軍以上に士気が低下する状況に置かれていた。

日本軍は水が不足しており、衛生状態は劣悪で、ほとんど無いに等しかった。食料も不足し、弾薬はそれ以上に欠乏していた。

時間がたつにつれ、日本兵の中には、機会を見て陣地を離れ、成功の見込みがほとんどない夜襲に出ていく者もいた。その多くは、命を落とす結果になった。ほんの少しの兵士だけが、生きて捕まることができた。

万歳突撃の提案と拒否

11月下旬には、村井少将でさえも、どうやらそのような認識に至ったようであった。

彼はまだ作戦の最終決定を下す立場ではなかったが、それでもコロール島にいる井上中将に無線で連絡し、長期にわたった防衛の締めくくりとして、万歳突撃を行う案を出した。

だが、井上将軍はその提案を拒否した。

この時点で、中川大佐が外部と連絡を取る手段は、コロールへの無線だけだった。大佐の予想どおり、現地の有線通信はすべて破壊されていた。彼は部隊に対し、防衛の最終段階を実行するための作戦命令を出していた。

最終局面の戦闘

戦車と歩兵が慎重に攻勢を押し進める中、第81師団の工兵はその一歩前に出て、日本軍の最終防御拠点の中枢へ通じる道路や傾斜路を整備していった。

これにより、歩兵が土のうで築いた塹壕を前へ押し出すのに合わせて、戦車や火炎放射器による攻撃で各洞窟や陣地を順次制圧していくことが可能となった。

中川大佐の最期

11月24日、中川大佐はコロールにいる上官へ最後の電報を送った。

彼は、第2歩兵連隊の軍旗をすでに焼却したと報告した。彼は、残る56名を17の侵入部隊に分け、米軍陣地を突破して「あらゆる場所で敵を攻撃する」よう命じたと述べた。

11月24日から25日の夜にかけて、日本兵25名(将校2名を含む)が戦死した。

翌朝、さらにもう一人の兵士が捕虜となった。捕まった兵士の話と、戦後に集めた資料や証言を合わせて考えると、中川大佐と村井少将は、司令部で自決したと判断されている。

掃討作戦の完了

第81歩兵師団の兵士たちによる最後の2日間の前進は、まさに言葉どおりの、完全な掃討作戦であった。

それは、潜んでいる敵を捜し出すために、慎重に行われた。11月27日の正午までに、東側を他の陸軍部隊に守られつつ北へ進んでいた部隊は、南下してきた大隊と、後に日本軍司令部が確認された地点付近で正面から合流した。

第323連隊の指揮官アーサー・P・ワトソン大佐は、ミュラー将軍に対し、作戦は終了したと報告した。

戦闘の余波

だが、戦闘は完全に終わったわけではなかった。

ペリリューの海兵隊航空部隊は、コロールやバベルダオブの日本軍陣地への攻撃を続け、哨戒中の海軍部隊と連携して、北パラオに残る日本軍を撃滅、あるいは封じ込めていった。

その戦闘で後に戦死した一人が、不屈のスタウト少佐(通称「カウボーイ」)であり、彼の率いる海兵隊第114戦闘機中隊はペリリューの地上戦に多大な航空支援を行っていた。

戦後も続いた抵抗

日本軍が天皇の意向に従い戦い抜こうとしていたことは、ペリリューで捕らえられた最後の33名の捕虜にはっきりと表れていた。

1947年3月、島の小規模な海軍駐屯地に配属されていた海兵隊の警備兵が、ウムルブロゴルの洞窟で日本軍の存在を示す明白な痕跡を発見した。

パトロールと待ち伏せの結果、はぐれた日本兵が一人捕らえられた。

彼は日本海軍の水兵で、残っている日本兵は、山口忠道中尉の指揮下にある33名だと明らかにした。彼はまた、この33名の寄せ集めの集団は一部で対立しているもの、それでも最後の万歳突撃を計画していると伝えた。

最後の降伏

海軍の責任者は、海軍の人員全員と約35人の家族を安全な場所に避難させた。

そのうえで、増援と、日本側の戦争犯罪の証人である澄川道男少将を呼ぶよう、グアムに連絡した。

澄川少将は飛行機で現地に入り、洞窟陣地と見られる地点の近くの道路をジープで移動した。彼は拡声器を使って、現在の状況を伝えた。しかし、反応はなかった。

ついに、最初に投降していた日本人水兵が、パラオの日本人家族や元将校からの手紙を携えて洞窟へ戻り、残存兵に戦争の終結を伝えた。

1947年4月21日、最後まで隠れていた兵士たちは、正式に戦いをやめて降伏した。山口中尉は、26名の兵士を率いて、完全武装した80名の海兵隊員の前へ進み出た。彼は一礼し、その場にいたアメリカ海軍の指揮官に、自らの刀を手渡した。

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