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ウムルブロゴル・ポケット:ペリリュー戦の特徴を凝縮した戦場

ウムルブロゴル・ポケットは、ペリリュー戦で上陸後に起きた戦いの悪い部分を全て集めたような場所だった。

そこは、ペリリュー戦でも特に激しく損害の大きい戦闘が行われた場所であり、同時に、この戦いにおける優れた判断と誤った判断の両方が見られた場所でもあった。

その地形は、島の中でも特に厳しく、攻めるのが難しい場所だった。上陸前の計画では、このポケットの本来の姿を十分に認識できていなかった。すなわち、狂信的で自殺的な防御に適した、複雑な洞窟と尾根からなる要塞という姿である。

この地域の占領計画では、ポケットの複雑な地形が過度に単純化されていた。

そのため、ポケットを段階ごとに順次攻略すべき目標として扱い、東西に接する平坦地と同時に占領する前提で進めていた。

南側高地と戦局の変化

南側の高地(一般に「ブラッディ・ノーズ」と呼ばれる)は上陸海岸と飛行場を見下ろしており、ポケットへはそれらを通って接近しなければならなかった。

プラー大佐率いる第1海兵連隊(バーガー中佐の第7海兵連隊第2大隊も増援として参加)が多大な犠牲を伴う勇敢な攻撃でこれらの高地を制圧し、さらに航空観測による情報から師団が砲兵を配置すると、状況は一変した。

その後、ポケットの日本軍守備隊は、アメリカ軍を妨害して進撃を遅らせることしかできなくなり、断続的な射撃や夜間の襲撃で嫌がらせをする程度の能力しか残されていなかった。

そして、上陸から4日が過ぎるころには、ウムルブロゴルの日本軍守備隊は、もはや師団の任務に重大な影響を与える力を失っていた。

攻勢継続と戦術的困難

それにもかかわらず、敵の重要な監視拠点が制圧された後も、リュパータス将軍はなお攻勢の勢いを保つよう求め続け、ポケットの攻略を、南側の高地の制圧と同じくらい急ぐべきものとして扱っていた。

地形の険しさと、それを守る日本軍守備隊のしぶとさは、第1海兵師団を率いる将軍の不屈の精神と絡み合っていった。

こうした複雑な状況は、時間の経過と、ガイガー将軍がしぶしぶ介入したことによって、ようやく整理された。

9月21日から29日にかけてのポケットへの攻撃の大半は、南から北へ向けて行われ、ポケットを形づくる二つの四方を囲まれた谷の入口や尾根に向かって進められた。

歩兵部隊は、戦車や航空機、火炎放射を装備した水陸両用車に支援されて低地へ突入することはできた。

しかし、その後彼らは、三つの方向から包囲されていることに気づいた。

峡谷の尾根の内部にある日本軍の陣地は、見えにくい位置にあり、洞窟によって守られていた。そのため、日本軍は「占領された」低地を攻撃し、確保するのを困難にさせていた。

東側の尾根の高地を占領することを目的とした他の攻撃も、当初は成功した。すなわち、小規模な歩兵部隊がむき出しの尾根上までよじ登ることはできたのである。

しかしその後、向かい合う平行な尾根や洞窟から日本軍の射撃を受けることになった。彼らは、暗闇に紛れて洞窟から出てきた日本軍による、強力な夜間の反撃を受けた。

9月20日以降の攻撃

9月20日(上陸後5日目)には、第7海兵連隊がポケットの南および南西正面で第1海兵連隊と交代しており、翌21日には第7海兵連隊第3大隊と第1大隊が南西および南からポケットへの攻撃を再開した。

これらの攻撃は、強力な火力支援と煙幕の下で当初は限定的な成功を収めた。

しかし、支援射撃や煙幕が終わると、確保した陣地を維持するのが困難になった。そのため、海兵隊は、再び火力支援を受けながら、おおむね出撃地点付近まで後退せざるを得なかった。その日の勇敢な戦いにもかかわらず、得るものはほとんどなかった。

ワイルドキャット・ボウルへの攻撃

翌22日の攻撃では、西側道路からポケット西側の側面に対し、西側の箱状峡谷(ワイルドキャット・ボウル)をさかのぼって進み、東山(140高地)へ向けて進撃した。

これらはすべて豊富な火力支援を受けていたが、今回も最初は前進に成功したものの、獲得した陣地の大半を日暮れまでに放棄せざるを得なかった。

三つの攻撃部隊はいずれも相互に支援し合う洞窟陣地に潜む日本軍から攻撃を受け、さらにその攻撃は次第に強まっていったからである。

第7海兵連隊は気づかないうちに、中川大佐の最後の司令部壕まであと約100メートルの地点にまで接近していた。しかし、その洞窟を攻め落とすには、周りの尾根や高地を先に制圧しておく必要があった。

包囲戦への移行

ウムルブロゴル・ポケットの戦いは、もはや包囲戦の状況となり、包囲戦術でしか突破できなくなっていた。

しかし、リュパータス将軍は、敵の抵抗を突破できるという考えに固執し続けていた。彼は、大隊と連隊で攻撃を続ければ「すぐに」勝利できると主張した。

北側からの圧迫

第321連隊がポケット北端付近で東方向への偵察を進めた結果、そのポケットを北側から封鎖できる位置に迫っていることがわかったため、包囲を完成させるべく、第2・第3大隊の2個大隊を東向きに展開した。

ヒルBの戦いと包囲の進展

ポケット北の重要地点ヒルBへの攻撃に、第321連隊は9月26日までかかりきりになっていた。

一方で、第5海兵連隊はペリリュー北部で戦闘を行っていた。

第7海兵連隊は、南側からポケットへの圧迫を続けるとともに、西側の警戒・封鎖にも当たっていた。9月26日に第321連隊が勝利を収めたことにより、その任務は拡大され、北側からポケット内部へ攻勢をかけることとなった。

これによって同時に、その北方にある散発的に防衛されていたカミリアンルル・リッジも一掃された。ヒルBおよび隣接する尾根から南へ向けた攻撃は、ごくわずかな進展しか見られなかった。し

かし、ポケット北側のアメリカ軍陣地をある程度強化することに成功したため、いまやポケットの幅は約400メートルとなっていた。9月29日、第7海兵連隊は、北部地区の陸軍部隊との交代を命じられた。

即席歩兵部隊の投入

第7連隊海兵連隊第2・第3大隊はポケット西部と南西部でほぼ固定の警戒任務に就いていたが、彼らの負担を減らすため、師団は砲兵や工兵などの支援部隊から数百人を抽出し、即席の歩兵部隊を2つ編成した。

この歩兵部隊は、第11海兵連隊のリチャード・B・エバンス中佐と第5海兵連隊のハロルド・T・A・リッチモンド少佐が指揮し、先に第7海兵連隊第2大隊と第3大隊が担当していた区域において、陣地を維持する任務を与えられた。

その区域は、西側道路とポケットの間にあるカルスト台地に面していた。

部隊交代と高地支配

この交代で第7海兵連隊は再び柔軟に部隊を動かせるようになり、第1大隊と第3大隊は9月29日にポケットの北端で第321大隊と交代した。

そして30日には南へ前進し、ボイド高地とその南への延長部(ヒル100、ポープ高地、またはウォルト高地などと様々に呼ばれる)に対する支配をさらに強化した。

南への延長部は西側道路を見下ろす位置にあったが、西側には依然として洞窟内に日本軍守備隊が残っていた。そして30日には南へ前進し、ボイド・リッジとその南への延長部(ヒル100、ポープ・リッジ、またはウォルト・リッジなどと様々に呼ばれる)に対する支配をさらに強化した。

南への延長部は西側道路を見下ろす位置にあったが、西側には依然として洞窟内に日本軍守備隊が残っていた。

第7海兵連隊がポープ・リッジを部分的に確保したことで、西側道路に対して限定的ながら支配が及び、その結果ポケット東側の戦線が安定した。しかし、このエリアにおける米軍の支配はまだ不十分だった。

10月3日の総攻撃

10月3日、ガブドス島から戻ってきた5海兵連隊第3大隊の増援を受けて、第7海兵連隊は4個大隊による攻撃を組織した。

計画では、第7海兵連隊第1大隊と第3大隊が北からボイド・リッジとその西側の小さな尾根を攻撃し、同連隊第2大隊が南からポープ(ウォルト)・リッジを攻撃することになっていた。

第5海兵連隊第3大隊は、南から、ホースシュー峡谷と、その西側にあるファイブ・シスターズに対して、日本軍の注意をそらすための陽動攻撃を行うよう命じられた。

この連隊によるポケットへの攻撃では、4つの歩兵「大隊」が投入されたが、いずれもすでに大隊というより中隊に近い規模にまで人数が減っていた。

彼らは、ポケット南端の高地(ファイブ・シスターズ)と、東側の尾根(ポープ・リッジとボイド・リッジ)を攻撃した。この攻撃は大きな損害を出しながらも成功を収めた。

しかし、ファイブ・シスターズ(そのうち4つは第5海兵連隊第3大隊が登って占領した)は防御を維持できる場所ではなく、占領したあとに放棄せざるを得なかった。

10月4日の戦闘と損害

翌10月4日、第7海兵連隊は、第5海兵連隊第3大隊を引き続き指揮下に置いたまま、再び総攻撃を行った。

南では、ファイブ・シスターズの陣地を奪取したものの、最終的には放棄せざるを得なかった。北では、すでに確保していた地点からさらに前進し、陣地の維持と強化を図った。

この10月4日の戦闘において、第7海兵連隊第3大隊の前進は予想外に速い進展を見せ、その勢いのままヒル120への進出を図った。これによって、翌日に西側の尾根を攻撃するための、良い足がかりとなることが期待された。

しかし、ヒル120は、ウムルブロゴルの他の多くの地点と同様に、敵の十字砲火にさらされており、完全に維持不可能な状態であった。

攻撃部隊は大きな損害を出して撤退した。

これらの死傷者の中には、L中隊を率いていたジェームズ・V・シャンリー大尉(通称「ジェイモ」)も含まれていた。

彼の中隊がヒル120を攻撃していた際、兵士の数名が負傷して倒れた。シャンリー大尉は激しい砲火をかいくぐって前進し、兵士2名を救い出して、戦車の後方の安全な位置まで運んだ。

彼は3人目を救うため再び駆け戻ったが、その直後、背後に迫撃砲弾が落ち、致命傷を負った。副官のハロルド・J・コリンズ中尉は彼を救おうと駆け出したが、日本軍の対戦車砲弾を受け、その場で倒れ即死した。

その勇敢な行動により、シャンリー大尉は、ニューブリテン島のグロスター岬の戦いで受章していたネイビー・クロスを、再び授与された。

グロスター岬の戦いでは、彼の中隊は、ボルゲン湾の重要拠点であるヒル660の攻略に参加していた。

第7海兵連隊の消耗と交代

第7海兵隊は、すでに2週間にわたり、過酷なウムルブロゴルでの戦いに従事していた。

リュパータス将軍は第7海兵連隊を交代させることを決定したが、これはガイガー将軍も提案していたものだった。

それでもなお海兵隊でポケット地帯を確保しようと決意していたリュパータス将軍は、残る唯一の海兵連隊である第5海兵連隊に目を向けた。

ハリス大佐の戦術方針

ハリス大佐は、この第5海兵連隊による最終的な攻撃にあたり、二つの明確な方針を持ち込んだ。

第一に、攻撃は北側から行う。

この進路は、地形区画や尾根を一つずつ攻略していくのに最も有利であった。ポケット東側の第1大隊の陣地は維持を基本とし、必要に応じて段階的に手直しや強化を行うにとどめた。南側からの攻撃は行わず、そこにいた第3大隊は予備兵力として待機させた。

ハリス大佐は、ペリリューでの最初の一週間に行った航空偵察によって、ウムルブロゴルに点在する相互に防御し合う多数の陣地を掃討するには、包囲戦術が必要だと確信していた。

ハリス大佐は、連隊指揮所を訪れた上級指揮官たちの前で以前に語ったとおり、「弾薬は惜しまず使い、人命は無駄にしない」という方針を貫いた。彼は攻撃命令の前に支援を十分整えられる有利な立場にあった。

北側からの段階的攻撃

第5海兵連隊第2大隊は、10月5日に第7海兵連隊第3大隊と交代して配置についたが、強力な火力を投入できる地点の偵察を行うだけにとどまった。

工兵のブルドーザーが箱状の峡谷の北端へ通じる進路を整備したことで、後に火炎放射型水陸両用車や戦車が進入し行動できるようになった。

軽砲兵中隊が西側道路沿いに配置され、ポケット北端の西向きの崖に対して至近距離から射撃できるようにした。

その後、兵器運搬車や戦車も同様に配置された。一部の厄介な崖は、直接射撃によって文字どおり破壊され、その瓦礫はブルドーザーでならされて、戦車がより有利な射撃位置へ登るための斜面に作り替えられた。

軽迫撃砲が広く用いられ、日本軍の射撃用の洞窟があると疑われる地域の草木をはぎ取った。また、航空機が、第5海兵連隊第2大隊が主目標と定めたヒル140のすぐ南の目標に対してナパームで爆撃を行った。

火力による圧迫

第5海兵連隊第2大隊が北側で敵の射撃陣地を次々と制圧していく一方、10月7日には第5海兵連隊第3大隊がホースシュー地区に戦車部隊を出撃させた。

今回は占領ではなく、ファイブ・シスターズとヒル100(ポープ・リッジ)の西側斜面にある確認済みの目標を、火力で徹底的に破壊することが目的であった。

弾薬を撃ち尽くすと戦車はいったん後退して補給を受け、やがて火炎放射型水陸両用車を伴い、小規模な歩兵部隊に護衛されて再び戻ってきた。

これにより、さらに攻撃力が強まり、洞窟内の多くの日本兵が殺され、そこにあった重火器の多くが無力化された。

それ以前には、ホースシュー内部にある日本軍の大砲のひとつが、ときおり飛行場に対して妨害射撃を行っていた。しかし、10月7日に戦車が出撃して以降、そのような妨害射撃は見られなくなった。

漸進的前進と火力集中

その後6日間、第5海兵連隊司令部は、北側から進出する第2大隊による小規模で段階的な前進に対し、できる限りのあらゆる支援を行った。

軽迫撃砲が繰り返し用いられ、小規模な目標や前進ルート上の草木はすべて吹き飛ばされた。

戦車と砲兵は、日本軍が潜んでいそうなあらゆる洞窟や起伏の激しいサンゴ地帯に対して、至近距離から射撃を行った。

草木を焼き払うためと日本軍守備隊の一部を洞窟の奥へ追いやることを期待して、ナパーム弾が使用された。

すべての前進は極めて限定的であり、その目的はもっぱら新たな射撃陣地の奪取にあった。前進は分隊または小さな小隊単位で行われた。

ヒル140の確保

最後に確保された陣地であるヒル140(ファイブ・ブラザーズのすぐ北)は、射撃陣地として利用された。

75mm榴弾砲が分解された状態で運び込まれ、再び組立てられたのち土のうで防護され、優位な位置から効果的な射撃が行われた。

そこから、尾根のふもとにある巨大な洞窟の入口に向けて射撃することができた。その洞窟からは数日にわたって激しい射撃を受けていた。

土のうと陣地構築

この砲を土のうで固めて陣地化するには特有の困難があった。

というのも、利用できる砂や土は、海岸から運ぶか、たまに起きる崩落で得られるものに限られていたからである。

それでも、前線歩兵陣地での土のうの使用は徐々に増えていった。この手法は後に改良され、第81歩兵師団がポケットの掃討を引き継いだ際には広く使われるようになった。

包囲の進展

慎重に前進を重ねた結果、二つの危険な行き止まりの渓谷の入口にある小さな丘や尾根をいくつか制圧することができた。

直接射撃でウォルト・リッジとボイド・リッジの西斜面を攻撃することはできたが(頂上は第5海兵連隊第1大隊が確保していた)、その洞窟だらけの斜面は、ファイブ・ブラザーズと呼ばれる反対側の尾根にある洞窟から攻撃を受けるため、簡単には攻略できない状態だった。

こうした包囲戦のような戦闘が1週間続いた結果、ポケットの北側境界線はさらに約500メートル南に縮小した。

10月12日、第5海兵連隊第3大隊が投入され、第2大隊と交代した。

しかし、この交代は深刻な混乱を伴った。主な原因は、交代の対象となる前線陣地が敵とあまりにも近かったためだった。

交代に入った部隊は、中隊長を含めて狙撃されて次々に倒れ、さらに敵の小部隊が、これまで射撃で阻止していた陣地を再び奪い返した。

これらの損害や混乱にもかかわらず、交代は予定どおり完了し、10月13日には第5海兵連隊第3大隊が、引き続きじわじわと前進を進めた。

西側道路方面の前進

ヒル140の南側には有効な進撃路がなかったため、第5海兵連隊第3大隊は進撃方向を南西へ変更し、西側道路に沿う形で、その前方に広がるサンゴの荒地へ進んだ。

そこは、西側道路を守る混成部隊の防衛線の前面だった。混成部隊がその場で防衛を続ける一方で、第5海兵連隊第3大隊はその前面を北から南へと移動した。

この方法によって、サンゴ質の荒れ地で、南北約457メートルにわたる戦線の前方70~140メートルの範囲から敵を排除した。

かつては大きな損害を覚悟しなければ進めないとされたこの地形も、ナパーム弾による事前爆撃のおかげで、いまでは進行が可能となった。「カウボーイ」ことストウト少佐の率いる第114戦闘機中隊の航空隊は、前進する第5海兵連隊第3大隊の前線と、西側道路の東側で持ちこたえる混成部隊のすぐ近くに爆弾を投下した。

二方向攻撃による制圧

その後、ジョン・ゴームリー中佐の第7海兵連隊第1大隊の残存部隊が、南から同様の攻撃を開始した。

この二方向からの進撃によって、西側道路とチャイナ・ウォールの間にあるサンゴの荒地は、その奥行きの約半分が制圧され、敵は排除された。

この掃討作戦により、混成の「歩兵」部隊は戦線を東へ前進させ、その後、歩兵が掃討した範囲いっぱいまで、チャイナ・ウォールの奥側に向かって陣地を維持することが可能となった。

ポケットの縮小と戦況

10月における第5・第7海兵連隊の作戦の結果、ポケットの範囲は南北約730メートル、東西約370~460メートルの楕円形にまで縮小した。

中川大佐が当時コロールに送った無線連絡では、ポケット地帯にはまだ約700人の兵士がいたが、その全員が戦える状態ではなく、戦えるのは8割ほどだったとされている。

10月初旬には、ある兵士が冗談で、ポケットの周りを有刺鉄線で囲って捕虜収容所にしてしまえば分かりやすくていいのではと言った。

それは皮肉を込めた冗談ではあったが、ポケットはもはや戦局にも、ペリリューを完全に掌握することにも、重要な存在ではなくなっていたという事実を示していた。

指揮判断と作戦終了へ

しかしそれでもなお、この問題はリュパータス将軍にとっては重要であった。

彼は、第81師団のミュラー少将に掃討任務を引き継がせる前に、ポケット地帯を制圧しておきたいと考えていた。

実際には、リュパータス将軍がガブドス島とペリリュー島北部を制圧した時点で、ペリリュー島に残っていた日本軍はもう増援を送ってもらえない状態になっていた。そのような戦術的状況が作り出されたことで、ペリリューの確保は事実上達成されていた。

ガイガー将軍は、ペリリューが事実上制圧されたと正式に宣言し、第1海兵師団の任務を終了させることまでは求めなかった。

しかし、ここ数日、ポケット地帯への攻撃を続けるにあたっては、まず第5海兵連隊、次いで第7海兵連隊を、まだ第1海兵師団に配属されていた最大かつ最も新鋭の歩兵連隊である第321連隊戦闘団と交代させるよう、リュパータス将軍に提案していた。

これら提案のすべてに対し、リュパータス将軍は、海兵隊が「まもなく」ポケットを制圧すると繰り返し答えていた。

作戦指揮の移行

しかしここで、リュパータス将軍の自信を打ち砕く出来事が二つ起こった。

第一に、第81師団は、ウルシーの極めて重要な占領作戦から戻ったばかりの第323連隊戦闘団が復帰したことで、戦力が完全な状態となった。

第二に、ペリリューはすでに実質的に制圧済みであるという認識が、太平洋方面の最高司令官ニミッツ提督の電文によって正式に裏付けられた。

ガイガー少将は指揮権をミュラー少将に引き渡すよう命じられた。

ミュラー少将の第81師団は、従来の計画どおり、第1海兵師団と交代し、掃討およびペリリューの守備を担当することになっていた。

パラオ方面における作戦司令官として、ジョージ・E・フォート少将(セオドア・S・ウィルキンソン少将の後任)は、その任務を、地区司令官であるジョン・H・フーバー中将に引き渡すよう命じられた。

第1海兵師団は第81師団と交代したのち、パブブ島へ帰還することになった。

最終的な引き継ぎ

部隊の移動と指揮引き継ぎの間は、第81師団がアンガウルから司令部を移設できるようになるまで、陸上作戦の指揮は必然的に第1海兵師団が引き続き担った。

10月20日、ミュラー将軍は、ペリリュー島のパープル・ビーチ付近に司令部を設置した。

こうして第81師団は、ポケット地帯の「管理権」を引き継ぎ、その屈強で有能ながらも消耗した日本軍守備隊を最終的に制圧する責任を負うことになった。

その一方で、第5海兵連隊は10月15日と16日にかけて第321連隊戦闘団と交代した。

その交代が進む中でも、ゴームリー中佐率いる第7海兵連隊第1大隊は、先に述べたサンゴ礁の悪地での戦闘を継続し、西道路を防護する包囲線を東方へ前進させる役割を果たしていた。

そのため、第7海兵連隊第1大隊の交代は翌日まで持ち越された。10月17日、ウルシーから新たに到着した完全編成の第323連隊第1大隊B中隊が、ゴームリー中佐の大隊の残存兵とほぼ同数の兵力で交代した。

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