攻撃は続く
夜明けの両軍司令官
夜明けとともに、ペリリューの両陣営の司令官たちは、わずかな眠りから目を覚まし、すぐに厳しい現実と向き合うこととなった。
リュパータス将軍は、師団の予備部隊を橋頭堡の南部地区に上陸させようと試みたが失敗したことにいら立ちを覚えていた。しかし、今や北部地区、特に最も左側に位置する部隊が最も支援を必要としていることを認識していた。
リュパータス将軍は、第7海兵連隊第2大隊をプラー大佐の担当地区へ投入するよう命じた。
上陸初日の損害と戦線の停滞
洋上の師団司令部では、海兵隊の上陸作戦初日における損害の全容がより詳しく判明していた。
死者209名を含む、計1,111名の損害であった。
これは、増強された師団全体の兵力から見れば大きな割合ではなかったが、最前線で戦える実戦兵力という点で見ると、その数は深刻なものだった。
その 1,111人の損害のほとんどは、師団の9個歩兵大隊のうち8個大隊で出たものであった。中央部を除けば、リュパータス将軍が計画していた8の到達目標線のうち最初のものである第一目標線(O-1ライン)に、まだ到達していなかった。
前線視察を決意するリュパータス
第1海兵連隊の状況について十分に把握できていなかったリュパータス将軍は、失われた勢いを取り戻すため、できるだけ早く上陸し、自ら状況を確認し、可能な限りの手を打とうと、これまで以上に強く決意していた。
ビーチ一帯はなお軽いながらも断続的な砲火を受けており、もし上陸した場合、彼は砂に掘られた塹壕の中で、足を引きずりながら指揮を取る必要があった(リュパータス将軍は上陸前の訓練で足を骨折しており、作戦中はずっとギブスをつけていた)。
しかし、リュパータス将軍はそのような問題よりも、自らの目で現場を見ることが重要だと考えていた。
中川大佐が見た戦場の現実
一方、中川大佐の側では、彼の司令部からは大本営に大戦果を次々と送っていたものの、彼自身はそれとはまったく異なる状況を高地から目の当たりにしていた。
上陸部隊は「撃退」されてなどいなかった。中川大佐の目の前の海岸には、アメリカ海兵隊の1個師団が展開しており、約3キロにわたって橋頭堡を築いていた。海兵隊は上陸当日に大きな損害を受けていたが、それでも戦闘を再開する態勢を整えていた。
当然ながら、海兵隊の攻撃は艦砲射撃、砲撃、そして航空攻撃の集中砲火の下で開始され、さらに、上陸当日に日本軍の戦車部隊を簡単に撃破した戦車の支援も受けることになっていた。
日本軍の損害と防御体制
中川大佐は、上陸当日に行った反撃で、5個の歩兵大隊のうちおよそ1個大隊を失っていた。他にも、上陸当日を通じて行われた戦闘や、橋頭堡に対する夜襲の失敗によって、海岸付近の守備隊数百名を失っていた。
それでもなお、彼のもとには訓練され武装した、戦闘意欲の高い兵士がまだ数千人残っていた。
日本軍守備隊は、堅固で厳重に守られた防御陣地や要塞に広く配置され、さらに地下トンネルや地下壕などの十分に整備されていた地下施設を持っていた。日本兵はいずれもよく訓練され、多くの米兵を倒そうと決意していた。
中川大佐が最初から理解していたように、島を守る日本軍の強みは地形にあり、さらにその有利な地形を占拠し、組織的に利用していることにあった。
当面の間、中川大佐は飛行場を見下ろすウムルブロゴル高地の頂上を占拠しており、そこから撃退されるまでは、圧倒的に有利な陣地を保持していた。
彼は攻撃してくる敵をよく観察できる位置にあり、さらに隠れた場所からの射撃によって大きな打撃を与えることができた。
中川大佐の部隊はアメリカ軍からはほとんど見えず、またアメリカ軍の優勢な火力にも比較的影響を受けにくかった。大佐の部隊が重要な高地を引き続き確保し続ける見込みは、十分にあるように思われた。
左側部隊(第1海兵連隊)への圧力
海兵隊は要塞化された日本軍陣地を攻撃しており、それに対しては慎重で精密な火力準備が必要であった。
特に、左側の部隊で慎重な火力支援よりも速度を優先しており、急いで攻撃を行うよう強い圧力を受けていた。
日本軍からは海兵隊陣地が丸見えで、陣地全体が日本軍の射程に入っていたため、その場にとどまることは、隠れた敵に好きなように撃たれることを意味した。
進撃の勢いを重視するリュパータス少将の将軍は、依然として正しかった。
このため、主として左側の第1海兵連隊と、次いで飛行場地域の第5海兵連隊が、前進のスピードを上げるという重荷を背負うことになった。
南部では、第7海兵連隊がすでに飛行場の南側地域を確保していた。草木が密集するジャングルによって海兵隊の動きは日本軍からほとんど見えず、しかも日本軍の防御は飛行場ではなく海側に向けられていた。
プラー隊長率いる第1海兵連隊は、上陸初日にすでに最大の損害を出していたが、なお最も前進が難しい地形と強力な防御陣地に立ち向かっていた。
ザ・ポイントのK中隊救出作戦
第1海兵連隊は攻撃を行い、ザ・ポイントの第1海兵連隊第3大隊のK中隊を救出し、さらにウムルブロゴルの頂上を南から北へ向けて攻撃しなければならなかった。
この攻撃を支援するため、ホンソウェッツ中佐は東に配置されていた第1海兵連隊第2大隊を左へ転進させ、飛行場と山脈の間にある建物が密集した地帯を攻撃し占領しなければならなかった。
この任務は、上陸後1日目と2日目に同大隊が行い、右側の区域では第5海兵連隊がこれを支援した。しかしその時、ホンソウェッツ中佐は高地を見下ろす尾根のふもとにいた。
彼は、尾根の上や洞窟陣地にいる日本軍に対して、デイビス中佐率いる第1海兵連隊第1大隊が展開した、爪で岩をひっかきながら這い上がるような激しい攻撃に加わった。
プラー大佐は、左側部隊の隙間を埋めて連隊全体を北へ向かわせることができたため、サボル中佐率いる第1海兵連隊第3大隊を左へと方向転換させた。
サボル中佐は、第1海兵連隊第1大隊B中隊の支援を受けて、ザ・ポイントにいるK中隊と連絡を取り、増援を送った。
その後、彼は北へ前進し、左側部隊を海岸線に、右側部隊をウムルブロゴル高地の西端部の山麓に沿った西側道路付近に展開させた。
サボル中佐の担当地区は地形上戦車の支援を受けることができ、さらに右の尾根地帯に比べて部隊を展開しやすかった。
激戦ではあったが、上陸日以降、サボル中佐の大隊は右側の部隊よりも速く北へ前進することができた。ただし、サボル大隊の前進は、右のデイビス中佐指揮の第1大隊との連絡を保つ必要があったため、制限された。
予備兵力不足が顕在化
サボル中佐の平坦で開けた地区と、デイビス中佐の非常に険しい戦闘地域との境界では、前進速度に差が生じたため、予備兵力の投入が初めて切実に必要となった。
戦術的には、東へ押し進んで険しい地形に入り込み、これを越えて、複雑に構築された日本軍の防御陣地を組織的に一つずつ制圧していく必要があることは明らかだった。
その任務は、デイビス中佐の第1海兵連隊第1大隊、ホンソウェッツ中佐の第1海兵連隊第2大隊、そしてバーガー中佐の第7海兵連隊第2大隊に任された。
しかし、開けた地形を北へ進んでウムルブロゴルの険しい地域の包囲を開始し、その複雑な岩山地帯へ入り込む進路を探すためには、サボル中佐の兵力以上の部隊が必要であった。
9月17日までには、第1師団の左側(西側)の前進方向で、予備兵力が切実に必要となっていた。しかし9月17日には、第1師団にも第3海兵水陸両用軍団にも投入できる予備兵力は存在しなかった。
デイビス大隊の前進
サボル中佐の第1海兵連隊第3大隊が第1海兵連隊左側の比較的進みやすい地形を前進している間、デイビス中佐の第1海兵連隊第1大隊は中央部へ突入した。
デイビス中佐の左側の部隊は、珊瑚礁の尾根地帯と、サボル中佐が担当するより開けた平地との境目に位置していた。
デイビス中佐が尾根地帯の山麓に近づいたとき、すぐに驚いたのは、オルデンドルフ提督が上陸前の艦砲射撃で破壊したと報告していたトーチカが現れたことであった。
そのトーチカは数週間も前から作戦計画図に載っていたが、最初に遭遇した兵士たちは、「損傷を受けた形跡がまったくない!」と報告した。
そのトーチカは、強固な防衛施設の一部だった。多数のトーチカや砲陣地からなる網の目のような防御陣地と連結しており、相互に支援できる構造になっていた。
壁は鉄筋コンクリート造で、厚さは約1.2メートルもあった。幸いなことに、デイビス中佐には海軍艦砲射撃支援チームが配属されており、そのチームが戦艦ミシシッピに艦砲射撃を要請した。
両者の連携により、防御陣地は比較的短時間で制圧され、第1海兵連隊第1大隊は前進したものの、ほどなくして、はるかに攻略困難な日本軍の尾根にある防御陣地に直面した。
ウムルブロゴルの尾根
デイビス少佐(彼は1950年の朝鮮戦争で名誉勲章を受章することになる)は、これらの尾根とその周辺への攻撃について、「私がこれまでに経験した中で最も困難な任務だった」と述べている。
作戦の最初の4日間、第1海兵連隊の3個大隊は肩を並べて戦い、ウムルブロゴルの尾根へと攻め上がっていった。
珊瑚岩でできた尾根にはいたるところに洞窟があり、極めて攻略が難しい地形だった。
バーガー中佐の第7海兵連隊第2大隊は、当初は師団の予備部隊だったが、上陸翌日に第1海兵連隊に配属され、ただちに戦闘に投入された。
プラー隊長は、大隊の2個中隊を一度にではなく、小出しにして戦闘へ送り込んだ。その後まもなく、第7海兵連隊第2大隊は、プラー大佐の第1大隊と第2大隊の間の中央の作戦区域を割り当てられた。
第1海兵連隊は、約1kmにわたる戦線で、4個大隊の正面に立って攻撃を続けた。
尾根と崖は信じがたいほど入り組んでおり、その中にある地下洞窟や陣地では、頑強で熟練した日本軍守備隊が待ち受けていた。
前進するたびに、海兵隊は隠された陣地から新たな攻撃にさらされた。射撃は側面や後方、さらには新たに占領した地点の上や下の洞窟からも浴びせられた。
ヒル100(東山)の激戦
ウムルブロゴルの攻略が戦術的に困難であることを最もよく示す事例は、9月19日にヒル100を奪取し、後にそこから撤退した出来事だ。
ヒル100は、ウムルブロゴル・ポケットの東端に位置し、いわゆるホースシューバレーに接する尾根である。ヒル100は、第1海兵連隊第2大隊(ホンソヴェッツ中佐)の担当区域に位置していた。
この大隊には、レイ・デイビス少佐の第1大隊のB中隊が配属されていた。第1海兵連隊第1大隊B中隊は、上陸時には242名であったが、ポープ大尉がホンソウェッツ中佐からヒル100を占領せよという命令を受けた時には、残っていたのは90名だけであった。
日本軍はこの丘を「東山」と呼んでいた。
当初ポープ大尉の中隊は戦車の支援を受けていたが、先頭の2両の戦車が進入路の盛土道路から滑り落ちたため、その支援を失った。迫撃砲支援だけを頼りに、激しい敵の迫撃砲と機関銃射撃を受けつつ、ポープ大尉の中隊は日暮れ近くに頂上へ達した。しかし、尾根は北東へ延びてさらに高くなっており、その高地から日本軍が争奪中のヒル100に猛烈な射撃を浴びせていることがわかった。
また、西側に平行して延びるファイブ・ブラザーズと呼ばれる尾根の洞窟内部からの日本軍の射撃も、同様に大きな脅威であった。夜の闇が迫る中、ポープ大尉の部隊は第1海兵連隊第2大隊の重迫撃砲の手厚い支援を受け、なんとか陣地を守り抜いた。
一晩中、日本軍は尾根の頂上に向けて、次々と偵察を送り込み、反撃を仕掛けてきた。日本軍の攻撃は、迫撃砲の支援と、銃だけでなくナイフや石までもが使われる白兵戦により、撃退された。手りゅう弾が不足すると、石も時折投げられた。
夜が明けたとき、ポープ大尉の部隊はまだ尾根の頂上に踏みとどまっていた。しかし、無傷の海兵隊員はすでに8人にまで減っていた。
ポープ大尉は撤退を命じられ、負傷者を連れて退却することができた。しかし戦死者は尾根に残していかざるを得ず、その遺体が回収されたのは、尾根が最終的に完全に再占領された10月3日になってからであった。
この戦闘は、ウムルブロゴル全域での日本軍守備隊の戦い方を象徴するものだった。すなわち、互いに支援し合う陣地を巧みに活用する戦い方であり、同時に今後もこのような戦い方を日本軍が取ることを暗示していた。
第1海兵連隊の大損害
上陸から4日目までに、第1海兵連隊は1,500名の損害を出し、もはや実質的には連隊と呼べない状態となっていた。
この状況は、プラー大佐に前進を求め続けたリュパータス将軍と、その上官で第3水陸両用軍団司令官のロイ・S・ガイガー少将との間に、深刻な対立を生んだ。
ブーゲンビルやグアムで大規模な地上作戦を指揮した自身の経験から、ガイガー少将は、こうした損害が前線で戦う部隊の戦闘力を大きく低下させることをよく理解していた。
9月21日、ガイガー少将は前線の指揮所でプラー大佐と面会し、彼自身と彼の部隊が極度に疲弊していることを目の当たりにした。
その後、彼は第1海兵師団司令部に赴き、リュパータス将軍と数名の幕僚と協議した。リュパータス将軍は、師団に増援が必要だという事実を依然として受け入れなかった。
しかし、最終的にはガイガー少将が彼の判断を覆した。
第81歩兵師団の増援
ガイガー少将は、アンガウル島に展開していた第81歩兵師団の第321連隊戦闘団が新たに使用可能になったのを受け、これを海兵師団に配属するよう命令した。
ガイガー少将はさらに、リュパータス将軍に第1海兵連隊を前線から外し、ラッセル諸島の師団後方基地であるパブブ島へ帰還させるよう命令した。
9月21日(上陸から5日目)、リュパータス将軍は、第7海兵連隊に、第1海兵連隊第1・第2大隊の残存部隊と交代するよう命じた。
この時点で、第1海兵連隊の損害は1749名に達していた。第1海兵連隊は、推定3,942名の日本兵を殺害し、珊瑚岩の尾根の防衛拠点10か所を占領し、さらにトーチカ3基、ピルボックス22基、対戦車砲13門、洞窟の防御陣地144か所を破壊したと報告した。
この戦闘で攻撃に投入された大隊は、尾根の多くを占領することで、飛行場や補給場所への日本軍の監視と有効な射撃を阻止することができた。
飛行場の使用開始と補給の安定
上陸5日目には、戦闘で損傷し、まだ修理中だったものの、ペリリュー島の飛行場から軽飛行機が飛び立つようになった。
また、パープル・ビーチが米軍の制圧下に置かれたことで、師団への補給が確実に行えるようになった。
日本軍は、運用が始まった飛行場や後方地域をいくらか監視できてはいたが、その能力は低下しており、脅威というよりは嫌がらせ程度の攻撃しかできなくなっていた。
さらに、ウムルブロゴルにおける海兵隊の前線は、後から判明するが、この時点までに日本軍の最終防御陣地の近くにまで到達していた。
当時の情報ではそのことが把握されていなかったが、地形と戦況から判断すると、攻撃に必要な条件はすでに満たされており、ウムルブロゴルでは戦術を包囲戦に切り替える時期に来ていることが示されていた。
日本軍守備隊もまた、アメリカ軍の観測機が上空にいるときには、洞窟から兵器を出してビーチや飛行場を撃つことができないことを知った。
日本軍は、もし数発撃ち返した場合、すぐに対砲兵射撃や非常に恐れられていた空母の航空機による反撃を受けることを覚悟しなければならなかった。さらに 9月24日以降は、ペリリューの飛行場から出撃する海兵隊の攻撃機による攻撃が加わった。

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