血まみれのビーチ
Dデイ
1944年9月15日のDデイ。第1海兵師団に属する第1、第5、第7海兵連隊の歩兵5個大隊は、水陸両用車に搭乗し、パラオ諸島ペリリュー島の5カ所の上陸地点へと向かった。
ペリリュー島は激しい艦砲射撃で煙につつまれており、水陸両用車は島の周囲約550~730メートルに広がるサンゴ礁の上をゆっくりと進んだ。ペリリュー島は、全長約1,600キロに及ぶカロリン諸島の西端に位置しており、米軍の一部の作戦立案者にとって、太平洋の日本軍支配地域への攻撃を続ける上で、障害あるいは脅威と見なされていた。
水陸両用車に乗り込んだ海兵隊員たちは、指揮官であるウィリアム・H・リュパータス少将から、この作戦は手ごわいものになるが、短期間で終わるだろうと言われていた。その理由の大きな部分は、上陸に先立って実施される予定の、量・質ともに圧倒的な艦砲射撃と急降下爆撃にあった。
ある者たちの脳裏には、数か月前に行われたタラワの戦いの凄惨な光景がよぎっていた。姉妹部隊である第2海兵師団は、タラワの珊瑚礁を越えて上陸し、血みどろの戦いとなった。しかし、上陸用舟艇から身を乗り出してのぞき込んだ第1海兵師団の兵士たちの目に映ったのは、海岸線一帯で土砂が吹き飛び、地面が激しくえぐられているすさまじい光景だった。
楽観的な者たちは、爆弾や大口径の艦砲弾が炸裂して立ちのぼる煙や爆発で噴き上がる土砂を見て、日本軍はこの猛烈な事前砲撃で損害を受けているに違いない、と期待した。少なくとも、これから一気に押し寄せてくる何百人もの海兵隊員に対して、すぐに効果的な反撃をするだけの力は残っていないと思われた。
兵員を乗せた水陸両用車の第一波の前を、75ミリ榴弾砲を搭載した装甲水陸両用車(LVTA)の部隊が進んでいた。彼らには、第一波の部隊が上陸する際に海岸で姿を現した敵の拠点や火器を制圧する任務が与えられていた。
海軍の艦砲射撃がより奥の目標へと移るのに合わせて、海軍の戦闘機が装甲水陸両用車のすぐ前方を一列になって飛行した。戦闘機は、上陸部隊の進行に並行して、浜辺の防御線に沿って南北に機銃掃射を行い、海兵隊が防御陣地に迫る間、海岸の日本兵を抑え込み、威圧し続けようとしていた。
一方、敵の監視を妨げ、上陸部隊に対する日本軍の攻撃を抑えるため、艦砲射撃は上陸海岸の北東にある山岳地帯へと目標を移した。
第一の想定外:ウムルブロゴル・ポケット(ブラッディ・ノーズリッジ)
その「山岳地帯」、後にウムルブロゴル・ポケット(通称「ブラッディ・ノーズリッジ」)と呼ばれることになる地帯は、実際の戦闘で初めて明らかになった2つの想定外の危険地帯の1つであり、その時点では師団長および作戦参謀には知られていなかった。
リュパータス将軍は、ペリリュー上陸作戦の計画立案期間の大半をワシントンでの臨時任務のため不在にしていたものの、作戦については十分なブリーフィングを受けていた。
第一の想定外は、ウムルブロゴルの実際の地形だった。航空写真では、ウムルブロゴルは南北に延びる、比較的なだらかで丸みを帯びた丘陵として写っていた。位置は上陸海岸から約1.8~3.7キロ離れており、海岸を見下ろす高地であると判断されていた。航空写真で見るかぎり、その高地は密生した草木に覆われているように見えた。
しかし、上陸前の準備砲爆撃とそのあとの重砲撃によって、草木はほぼ完全に取り除かれた。その結果明らかになったのは、ウムルブロゴル一帯はなだらかに丸みを帯びた丘ではなく、実際には鋭く隆起したサンゴの石灰岩が連なり、岩の塊や谷、陥没地が入り組んだ地形であるということだった。
その地形は、島の他の部分よりも約15~90メートル高くそびえ、洞窟や坑道に防御陣地を作るのに、きわめて適していた。日本軍は、この地形がもたらす利点を、長期にわたる占領期間と防御準備のあいだに最大限に活用していた。
第二の想定外:ペリリューの日本軍守備隊の戦術
海兵隊が直面した第二の想定外は、ペリリューの守備部隊を指揮する中川州男大佐と、コロール島の彼の上官である井上貞衛中将によって立てられた作戦計画であった。彼らの防衛思想は、リュパータス将軍がガダルカナルやグロスター岬の戦いで経験したものとは大きく変化しており、事実、将軍が想定していた「厳しいが短期間で終わる作戦」という想定を根底から否定するものだった。
これまでのように、精神力によって浜辺で敵を撃退し、さらに武士道精神と万歳突撃で残った敵を海へ追い落とそうとするのではなく、ペリリューの日本軍守備隊は、できる限り長く海兵隊を食い止め、多くの損害を与える方針をとった。
精神力に頼るのではなく、悪魔的とも言える地形と屈強で規律正しい日本兵を組み合わせることで、侵攻してくる敵に最大限の犠牲を強いたうえで、ペリリューを明け渡す構えであった。この海兵隊にとっての予想外の事態は、日本軍全体が、戦争初期の戦術を大きく改めていたことをはっきりと示していた。
しかし、上陸する海兵隊の5個大隊は、海岸へ移動する間や実際に上陸した瞬間に至るまで、日本軍の戦術が変化したことをほとんど、あるいは全く気づかなかった。
水陸両用車は、上陸海岸(ホワイト1・2、オレンジ1・2・3)の前に広がるサンゴ礁の上を、約800メートルにわたって跳ねるように進んだ。周りには、近づいた舟艇を破壊するため数百個の「機雷」が設置されていた。
これらの機雷は、実際には航空爆弾であり、陸上からワイヤー操作によって起爆できるよう設置されていた。しかし、事前の砲爆撃によってワイヤーが壊れ、ワイヤーを操作する兵士の視界も奪われていた。そのため、この機雷は、水陸両用車の前進を遅らせることも破壊することもほとんどできなかった。
水陸両用車が海岸に接近するにつれ、日本軍から迫撃砲や大砲による間接射撃を受けるようになった。この間接射撃は海兵隊員に不安を与えたが、実際の損害は少なく、この段階で米軍が失った車両はわずか数両にとどまった。
海岸での激しい日本軍の抵抗
しかし、このような日本軍の砲火は、事前の砲爆撃が、日本軍の重火力を完全には無力化していなかったことを示していた。
さらに深刻なことに、先頭の上陸部隊が海岸に近づくにつれて、水陸両用車は、北と南の側面に隠された防御陣地から激しい側面砲撃と、上陸用舟艇を狙った攻撃を受けることになった。
とりわけ、ホワイト1海岸の左側(北側)に位置する日本軍の防御陣地からの攻撃は非常に効果的で、多くの海兵隊員に損害を与えた。この陣地は、第1海兵連隊第3大隊(スティーブン・V・サボル中佐)が攻撃を担当していた。この日本軍陣地からの攻撃により、作戦上きわめて重要な左側の攻撃部隊が混乱することとなった。
上陸全体の作戦計画にとって致命的だったのは、これらの日本軍の攻撃により、大隊および連隊の指揮に重要な人員や装備を搭載した水陸両用車が破壊されたことだった。
大隊長と連隊長は両方とも、海岸での激しい戦いの真っただ中におり、通信手段を失っていたため、状況を正確に把握することも、部隊を立て直すこともできなかった。
日本軍の防衛拠点「ザ・ポイント」の制圧
師団の左側に位置する日本軍の防衛拠点「ザ・ポイント(訳者注:西海岸のホワイトビーチ北側に位置する岬のこと。日本軍の名称はイシマツ陣地と思われる。)」を制圧する重要な任務が、ジョージ・P・ハント大尉に託された。
ハント大尉は、第1海兵連隊の中でも最も経験豊富な中隊長の一人であり、ガダルカナルおよびニューブリテンでの戦闘経験を持っていた。彼は戦後、『ライフ』誌の長年にわたる編集主幹となっている。
ハント大尉は、中隊内において、各兵士の役割を明確に定めた作戦計画を用意していた。この計画は、全員が自分の役割と、その役割が中隊の行動計画の中でどのように機能するのかを理解するまで、繰り返し訓練された。各兵士は、自らの任務がいかに重要であるかを理解していた。
Dデイおよび攻撃開始時には、予想を上回る死傷者が発生した。中隊の一個小隊は、海岸での戦闘で一日中日本軍の激しい銃砲火にさらされ、身動きが取れなかった。中隊の残りの部隊の生存者たちは、計画どおり左に回り、日本軍の防御陣地を側面から攻撃できる地点に向かった。
彼らは身を危険にさらしながら前進を続け、日本軍の多数の防御陣地に攻撃を加え続けた。日本軍のトーチカや砲陣地の射撃口は小火器と発煙弾によって遮られ、その後爆薬や小銃擲弾による攻撃を受けた。この戦闘で重要な鍵を握ったのは、後続部隊の側面に展開する水陸両用車を狙い撃ちしていた、日本軍の最大最強の砲陣地の制圧であった。
海兵隊の小銃擲弾がこの砲陣地の砲口そのものに命中し、それが跳ねて陣地の内部に飛び込み、爆発と炎を引き起こした。日本軍守備兵は陣地の裏口から逃げ出したが、服は炎に包まれ、腰の弾薬が次々と爆発した。日本兵の逃げ道は把握されており、待ち構えていたハント大尉の部下が逃げる日本兵を仕留めた。
ザ・ポイントの確保
夕暮れまでに、ハント大尉のK中隊はザ・ポイントを確保した。しかしその時点で海兵隊員は小隊規模にまで減っており、隣接する部隊との連絡も途絶えていた。かろうじて通じた断片的な無線連絡だけが、支援射撃の要請と切実に必要とされていた補給を得る手段だった。
日没直前、1両の水陸両用車が浜辺に到達し、手榴弾と迫撃砲弾、そして水を運び込んだ。
翌日の午後、レイモンド・G・デイビス中佐指揮下の第1海兵連隊第1大隊は、ハント中隊との連絡を確保するためB中隊を前進させ、激しい争奪戦が続く陣地を確保するための支援に当たらせた。
ハント中隊はまた、Dデイを通じて浜辺での戦闘で身動きが取れなくなっていた小隊の生存者たちとも合流することができた。同様に重要だったのは、中隊が砲兵隊および艦砲射撃部隊との通信が再びできるようになったことで、これは二日目の夜の戦闘で決定的な役割を果たした。
ザ・ポイントの海兵隊への日本軍の反撃
その夜、日本軍はさらに規模の大きい二個中隊を組織して反撃を行い、ザ・ポイントにいる海兵隊に攻撃を仕掛けてきたが、その攻撃はかろうじて撃退することができた。
上陸から2日目の午前までに、ハント隊の生存者たちは第1海兵連隊第1大隊のB中隊とともにザ・ポイントを完全に確保した。
周囲には、防衛または奪回を試みて戦死した約500名の日本兵の遺体が横たわっていた。
第一海兵連隊第2大隊の動き
苦戦を強いられていた第一海兵連隊第3大隊の右側には、ラッセル・E・ホンソウェッツ中佐が指揮する第一海兵連隊第2大隊が展開していた。
第2大隊もまた、上陸時に大砲および迫撃砲の抵抗に遭い、さらに生き残っていた海岸の日本軍からの機関銃射撃も受けた。
第5海兵連隊第1大隊・第3大隊の動き
同様の状況は、第5海兵連隊の二つの大隊にも当てはまった。
ロバート・W・ボイド中佐が指揮する第5海兵連隊第1大隊、およびオースティン・C・ショフナー中佐が指揮する第5海兵連隊第3大隊は、浜辺の防御陣地を突破し、飛行場地区を東に見渡す平地へと進んだ。
第7海兵連隊第3大隊の動き
師団の右側に位置するオレンジ3海岸では、エドワード・H・ハースト少佐が指揮する第7海兵連隊第3大隊が、浜辺を側面から攻撃する強力な日本軍防御陣地を正面から横切らなければならなかった。
この状況は、ザ・ポイントの側面陣地にいた海兵隊員たちが直面したものと同じだった。しかし運がいいことに、ハースト少佐の大隊の場合は、ザ・ポイントの陣地ほど接近することがなかったため、同じような大きな損害を受けることはなかった。
それにもかかわらず、第7海兵連隊第3大隊のK中隊は、日本軍の側面からの攻撃に加え、浜辺にある天然の障害物のために、予定されていた上陸海岸より左側に流れ着いてしまった。その結果、第5海兵連隊第3大隊が担当していたオレンジ2海岸の右半分に上陸することになった。
第7海兵連隊第3大隊のK中隊は、目標地点から外れ、右側の中隊とも連絡が取れない状況となった。それに加えて、第5海兵連隊第3大隊のK中隊と部隊が混在してしまい、作戦の混乱と遅れを招きかねない状態に陥った。ハースト少佐は、ばらばらになった自らの大隊を再編成するため、時間を費やす必要があった。
その際、攻撃進出方向を横切る大きな対戦車壕を、部隊の動きを揃えるための基準線として用いた。その後、彼の部隊は東への前進を再開したが、再編成に時間を費やしたため、前進は少し遅れることとなった。
師団長であるリュパータス将軍にとっては、いかなる遅れも受け入れ難いものであった。彼は、作戦成功の鍵は進撃の勢いにあると考えていた。
師団の右側部隊の運用計画では、第7海兵連隊(連隊長・ハーマン・H・ハネケン大佐)を、二個大隊を縦方向の隊形でもって、いずれもオレンジ3海岸から上陸させることが定められていた。
ハースト少佐が率いる大隊が先頭を前進するのに続き、ジョン・J・ゴームリー中佐指揮の第7海兵連隊第1大隊が、その進路に沿って後続する計画であった。ゴームリー隊はハースト隊の右側の部隊と連携し、その地域の状況が明らかになるにつれて、南東および南の方向へと部隊の向きを変える予定であった。
その後、ゴームリー隊は南東および南方向へ攻撃を行い、左側の部隊をハースト隊の右側の部隊と連携させ、自らの右側の部隊は浜辺に沿って前進させる計画であった。ハーストの大隊が対岸に到達した後、ハースト隊とゴームリー隊の両部隊は南へ攻撃を行い、南側の上陸地点であるスカーレット1およびスカーレット2を防衛することになっていた。
上陸から1時間後、5個大隊すべてが上陸完了
激戦となった最初の上陸から1時間後、5個大隊すべてが上陸を済ませていた。
しかし、ウムルブロゴルに近い位置にいた大隊ほど、脆弱な橋頭堡を確保し続けるのが難しい状況にあった。
その後の2時間のあいだに、師団に残っていた4個大隊のうち3個大隊が攻撃に加わり、リュパータス将軍が必要不可欠と考えていた攻勢の勢いを確保しようとした。
最前線で指揮を取ろうとする、第1海兵連隊長のプラー大佐
第1海兵連隊の連隊長であるルイス・B・プラー大佐は、サボル中佐が指揮する第1海兵連隊第3大隊のすぐ後ろに、前線を指揮するチームを上陸させた。
いつものように、プラー大佐は戦闘からできるだけ近い場所にいることを望んだ。十分な支援火力が得られないような場所でも、彼は気にしなかった。
通信手段が限られ、さらに後続部隊を運ぶ水陸両用車も不足する中で、プラー大佐はなんとかして自らの連隊の状況を把握し、改善しようと必死になった。
第一海兵連隊の左側と右側の戦闘状況
第一海兵連隊の左側に位置する第1海兵連隊第3大隊のK中隊は、2個小隊がザ・ポイントで優位に立とうと必死の戦闘を続けていた。
プラー大佐は、左側の戦闘を強化するため、サボル中佐の第3大隊後方にデイビス少佐の第1大隊を上陸させようとしたが、作戦実行時に水陸両用車を失い、失敗した。部隊は個別に上陸せざるを得ず、デイビス少佐の大隊は小出しに戦闘へ投入されることになった。
第一海兵連隊の右側では、ホンソウェッツ中佐の第2大隊が激戦に巻き込まれながらも、飛行場エリアを見下ろす雑木林の西端部制圧に向けて前進しつつあった。ホンソウェッツ中佐の右側の部隊は、同様に激戦中であったボイド中佐の第5海兵連隊第1大隊と連携して作戦を行っていた。
第7海兵連隊第1大隊の上陸
橋頭堡南部地区では、ゴームリー中佐指揮の第7海兵連隊第1大隊の上陸が行われたが、水陸両用車を失っていたこともあり、少し遅れることとなった。上陸初期段階での日本軍からの激しい抵抗は、海兵隊のその日の作戦全体に影響を及ぼした。
ゴームリー中佐の第7海兵連隊第1大隊の大半は、上陸予定地のオレンジ3海岸に上陸できた。
しかし、一部の兵は、海岸の南側に残っていた日本軍からの銃砲火を受けたため、左側へ押し流され、第5海兵連隊の行動区域であるオレンジ2に上陸することとなった。
結果的に、ゴームリー中佐の隊は、ハースト少佐の第7海兵連隊第3大隊の後方で全ての部隊が合流することができた。そして、ハースト少佐の隊の先頭が東へ前進できるようになると、ゴームリー中佐の隊は、南東および南方向の日本軍防御陣地に対して攻撃を開始した。
第7海兵連隊は、東と南の両方から日本軍の激しい抵抗を受けたが、作戦行動はほぼ計画通りに進んだ。
午後に激しくなった日本軍の抵抗と、無傷の日本軍トーチカ
ところが、午後の半ばになって、日本軍の抵抗は突如として非常に激しくなった。
ハースト少佐の第7海兵連隊第3大隊は、以前から地図に記載されており、上陸前の艦砲射撃によって破壊されたと報告されていたトーチカに、実際に遭遇することとなった。
しかし、後にプラー中佐が内陸部へ前進したときの状況と同じように、そのトーチカは艦砲射撃を受けた形跡がほとんど見られなかった。
そのため、無傷で残ったトーチカを攻撃し無力化するため、第7海兵連隊の前進はさらに遅れることとなり、リュパータス将軍は作戦の勢いが失われることへの懸念を一層強めた。

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