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ペリリュー島の占領は必要だったのか?コストと利益

ペリリュー島の攻略によって、アメリカの戦争遂行にはどのような利点があったのか?

ペリリュー攻略は、パラオ全域の完全支配を確実にした。その結果として、ニューギニアから西へ、さらに北へと進んでフィリピン作戦に入ろうとしていたマッカーサー軍の右側面の守りの安全性を、わずかながら高めた。

ペリリュー攻略戦によって、1944年3月のミッチャー提督の壊滅的な攻撃を免れたパラオ諸島の施設を破壊した。また、コロール島の潜水艦基地からの支援を完全に断ち、その結果、フィリピン東方で既に弱まっていた日本の潜水艦戦力をさらにじわじわと弱体化させた。

ペリリューをアメリカ軍が確保したことにより、パラオ北部に展開する約25,000名の日本軍を完全に無力化した。

ペリリュー上陸は、第323連隊上陸部隊によるウルシーの無血占領には、何ら貢献しなかった。ウィリアム・F・ハルゼー提督はかねてより、ペリリューを先に攻略しなくともウルシーを占領できると考えていた。

戦略的価値と限定的な意義

ペリリューを制圧したことで得られた最大の恩恵は、それがハワイおよびマリアナ諸島からフィリピンへ至る航空路および連絡線の中継地点として利用された点にあった。

その占領は確かに有益ではあったが、戦略上必要不可欠なものではなかった。

インディアナポリス号との関連

しかし、そのような判断は、1945年7月29日のインディアナポリス号沈没の生存者たちからは反対されるかもしれない。

インディアナポリス号はその少し前にテニアンへ原子爆弾の部品を届けたのち、フィリピンへ向かって航行中、夜間に突然魚雷攻撃を受けた。

同艦はわずか12分で沈没したが、敵との接触や撃沈されたという報告はどこにも届かなかった。

沈没から4日目、その乗員1,196名のうち316名の生存者が、ペリリューを基地とする海軍哨戒爆撃機によって発見された。

その発見が直接救助につながったのであり、アメリカ軍によるペリリュー占領がなければ、まず間違いなくその発見は起こらなかったであろう。

米軍の損害

ペリリュー攻略の代償は何だったのか?

海兵隊の損害は6,526名にのぼり、これには海軍の衛生兵および軍医も含まれており、そのうち1,252名が戦死した。

第81師団の損害は合計3,089名にのぼり、そのうち404名が戦死した。

ペリリュー、アンガウル、ガブドスにおける米軍の総死傷者は9,615名に達し、そのうち1,656名が戦死であった。

日本軍の損害と戦略的成果

これほどの損害を米軍に与えたことにより、日本軍は従来から掲げてきた「持久戦で敵に最大限の損害を与える」戦略を成功させたといえる。

この戦いの結果、日本軍は推定10,900名の損害を出し、そのほとんどが戦死であった(生存者はごくわずかにすぎなかった)。

捕虜となったのはわずか202名にとどまり、そのうち日本軍人は19名のみであった(陸軍7名、海軍12名)。

残る捕虜の大半は軍人ではなく労働要員であり、その多くは朝鮮人であった。日本軍守備隊のうち、捕虜となった者は千人あたり二人未満であった。

消耗戦としての教訓

ペリリューで支払われた犠牲は、日本本土へと至る太平洋戦線の今後の連合軍作戦に対し、多くの警告を与えるものであった。

アメリカ軍は、空と海で圧倒的な支配権を有していたのに加え、艦砲射撃や爆撃、ナパームまで投入し、兵力も4倍あった。

それでもペリリュー攻略では、日本兵1人を排除するのに、アメリカ軍は1人の犠牲と1,589発もの弾薬を費やす必要があった。

数か月後の硫黄島や沖縄でも、周到に築かれた防御陣地と優れた指揮のもとで徹底抗戦する日本軍によって、この割に合わない消耗戦の現実が改めて証明されることになる。

作戦の評価と未解決の問い

1944年9月1日の上陸から約52年を経た今日においても、ペリリュー作戦が必要であったかどうかという問題は、いまだ決着がついていない。

あの地獄のような島で戦った第1海兵師団の海兵隊員と衛生兵、そして第81歩兵師団の兵士たちの英雄的な行動と模範的な戦いぶりは、歴史に深く刻まれている。

ただし、ペリリュー攻略が本当に必要だったのかという疑問は今も残る。

実際、上陸のわずか2日前の1944年9月13日、ハルゼー提督はニミッツ提督を通じて統合参謀本部に対し、作戦の中止を提案していた。

しかし、その時点ではすでに遅かった。こうしてペリリューは、海兵隊が血を流しながらも勝利をつかんできた数々の戦いの一つに刻まれることになった。

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