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ウムルブロゴルの包囲戦

作戦の転換と戦術段階の移行

ウムルブロゴル高地の日本軍陣地にナパーム弾を投下するF4Uコルセア

ウムルブロゴル高地の日本軍陣地にナパーム弾を投下するF4Uコルセア

ペリリュー南部と東部が制圧されると、中央部の日本軍守備隊を包囲する作戦が始まり、同時にペリリュー北部やガブドス島、コンガウル島の日本軍に対する攻撃も開始された。

これは、ペリリューにおける戦闘が次の戦術の段階に移ったことを明白に示していた。

しかし、中央部の確保はペリリュー作戦の基本的な戦術・戦略目標にとってはそれほど必要ではなく、むしろ島の掃討のために重要であった。

第1海兵師団の副師団長であったオリバー・P・スミス准将が後に述べたように、「上陸から1週間で、師団はその時点で島内において必要なもの、あるいは後に使用することになるものはすべて確保できていた」。

戦略目標の達成状況

飛行場はすでに占領され、修復と改良が進められており、実際に使用されていた。

ペリリューの飛行場は、もはや、マッカーサーが以前から宣言していたフィリピンの奪還作戦に対して、(仮にこれまで脅威だったとしても)いかなる脅威でもなくなっていた。

ペリリュー島で最も優れた補給用海岸(パープル・ビーチ)はすでに確保されており、主要な戦闘地域へ安全に補給を行っていた。

洞窟内やペリリュー北部、さらにガブドス島にいる日本軍守備隊は、米軍の後方施設に対して嫌がらせ的な攻撃を行う能力はなお持っていたが、そのような攻撃は海兵隊による反撃によって大きく減っていた。

日本軍の残存能力

この時点で日本軍に残っていた能力は、次の二つだけだった。

すなわち、洞窟陣地でしぶとく抵抗することと、バベルダオブ島からペリリューへ小規模な増援を送ることである。

そのような増援は、小部隊による潜入に限られており、しかもその際には周辺海域で警戒活動をしている米海軍に対処しなければならなかった。

米軍が直面した兵力不足

同様に、日本軍がしぶとく抵抗を続けるウムルブロゴル・ポケットを包囲する際に、米軍は二つの障害に直面していた。

第一の問題は、第3海兵水陸両用軍団の予備兵力から、作戦活動のできる連隊が投入されなかったことであった。

ガイガー将軍は実際のところ、アンガウルの占領作戦に投入されている部隊の一部が戻ってくるまでは、自由に使える予備兵力をまったく持っていなかった。

第81歩兵師団(第323連隊戦闘団を除く)によるアンガウル島への上陸は9月17日に開始され、それ以降、戦闘団には予備兵力が存在しなくなった。

アンガウル作戦の影響

アンガウル作戦とそれに伴う計画、さらに実施時期の決定は、ペリリュー作戦に大きな影響を与えた。海軍の作戦立案者たちは当初から、ペリリュー島に先立ってアンガウル島に上陸する案を提案していた。

遠征部隊やX-Ray計画班を指揮するジュリアン・C・スミス少将は、そのタイミングで作戦を行うと、北パラオの多数の日本軍はペリリューに増援を行うだろうと説明した。それで初めて、アンガウル島はペリリュー島上陸の成功が確実になってから攻撃すべきだという方針が合意された。

しかし、ペリリュー島上陸作戦の成否がまだ明確にならないうちに、アンガウルへ島の上陸が開始された。第81師団の師団長は、できるだけ早期に上陸することを望んでおり、その考えは師団の海軍任務部隊司令官であるウィリアム・H・P・ブランディ少将にも支持されていた。

アンガウル島の上陸を9月17日とするのに反対していたのは、海兵隊のジュリアン・スミス少将だった。スミス少将は、ペリリュー作戦が十分に進んでいない段階で第3軍団の予備部隊の一部を投入するのは早すぎると主張した。

しかし、彼の助言は、セオドア・S・ウィルキンソン海軍中将によって退けられた。

予備兵力の分散投入

9月17日には、これに関連して、第3軍団の最後の予備部隊をウルシー上陸作戦に投入することを決定した。

ウルシー上陸作戦は西部攻撃部隊に割り当てられ、「使用可能な戦力でウルシーを占領せよ」と命じられた。

スミス将軍の助言に反し、ウィルキンソン海軍中将は、第81師団のもう一つの機動部隊である第323連隊戦闘団の全兵力を投入することに決めた。

その後、第323連隊(訳者注:原文では321とあるが、323の間違いと思われる)は無防備のウルシーを難なく占領したが、その一方でペリリューでは予備兵力が切実に必要とされていた。

兵力不足の解消

9月20日までに、第81師団はアンガウルの日本軍守備隊1,400名をすべて撃破するか、あるいは追い詰めていた。

第81師団長は、アンガウルが確保されたと宣言した。彼は第322連隊戦闘団に掃討を完了させる任務を与え、ガイガー将軍に対して、第321連隊戦闘団はさらなる作戦に投入可能であると報告した。

ウムルブロゴルの包囲を始めるにあたっての兵力不足は、もはや障害ではなくなっていた。

リュパータス将軍の判断

部隊を増援し、ウムルブロゴル・ポケットを包囲する際のもう一つの障害は、リュパータス将軍の考え方にあった。

彼は、ペリリューの攻略は海兵隊だけででき、陸軍の支援は必要ない、という信念に固執していた。

第3軍団の計画では、第81師団はペリリュー攻略において海兵隊を支援し、その後、第1海兵師団と交代して掃討を行うという任務を与えられていた。

しかし、リュパータス将軍は部下の指揮官たちに「急げ」と繰り返し命令し続けた。

偵察軽視と戦術判断

それ以前に、リュパータス将軍とプラー大佐は、第5海兵連隊のハリス大佐(通称「バッキ―」)から、第3海兵観測飛行隊の新たに使用可能となった軽飛行機でウムルブロゴル・ポケットを偵察してはどうかと提案されていたが、彼らはこの提案を無視していた。

9月19日に航空機が到着した直後に行われたハリス大佐自身の航空偵察により、ウムルブロゴルに対する彼の見方は、「深刻」から「極めて深刻」なものに変わった。

彼は、ポケットを北側から攻撃する方が、当初計画され命令を受けていた南から北への攻撃よりも損害が少ないと確信した。

しかし、プラー大佐とリュパータス将軍の両者は、ハリス大佐の助言に対して「地図を見て判断する」と答えた。

初期計画への固執

上陸前の作戦計画は、飛行場を占領した後、第1海兵師団が島の主要部、すなわち島の西側を横断する線に沿い、島の幅いっぱいに戦線を展開して北へ進撃するという戦術構想に基づいていた。

ウムルブロゴル南端に達すると、その戦術構想と作戦計画は、西から東へ引かれた4本のフェーズラインに反映されており、南から北への直線的な前進が想定されていたことを示していた。

明らかに、ウムルブロゴルの西側および東側の平坦地帯での前進は、ペリリュー中央の高地における前進とほぼ同じ速度で進むものと想定されていた。

こうした考え方は、リュパータス将軍の「攻略は3日で終わる」という予想とは一致していのかもしれない。

西側のサボル中佐の担当地区や東側の第5海兵連隊の担当地区での戦況の進展は、師団レベルの判断に変化をもたらさなかったようである。追加の兵力が利用可能になるまでは、そのような直線的な前進が、唯一可能な方法であるように思われていたのかもしれない。

戦術見直しの欠如

しかし、追加の兵力が利用可能になってからも、計画されていた南から北への一直線の前進の見直しが行われた形跡は見当たらない。

さらに、ウムルブロゴル・ポケットの最北端が包囲された後も数日にわたり、師団長は初期の上陸計画にほぼ従って、南から北への攻撃を命じ続けた。

ウムルブロゴル・ポケットに対する初期の航空偵察でハリス大佐が察知していたように、そのような攻撃の仕方は、犠牲者を増やす以外にほとんど得るものがなかった。

部隊は、強力な火力支援を受けて「ホースシュー」や「デスバレー」へと前進することはできたが、到達した陣地はいずれも確保し続けられないことが判明し、日没になると常に撤退していた。

地図の問題

この判断の一因は、使用していた地図の不正確さにあった可能性が高い。

第5海兵連隊は10月初旬に、より実態を反映した新たな略図を作成した。その地図によって、ウムルブロゴル内部の状況が十分に把握できるようになり、部隊の動きや火力の連携がスムーズになった。

地名の由来

ちなみに、その地図作成作業において、エベレット・P・ポープ大尉が名誉勲章を受章した場所である、「ホンソウェッツ・ヒル100」に、誤った名前をつける原因ともなった。

第5海兵連隊の地図作成班は、ハリス大佐の連隊がウムゴロル・ポケットの戦いに投入された後に編成されていた。地図作成班は、地図作成中にホンソウェッツ・ヒル100で連隊副官のウォルト中佐に出会い、それにちなんでホンソウェッツ・ヒル100に別の名前をつけた。

増援と作戦の転機

9月21日、ガイガー将軍はリュパータス将軍に対し、プラー大佐の壊滅状態の第1海兵連隊を撤退させるよう命じた。

しかし、リュパータス将軍はその後も、海兵隊だけで島全体をすぐに制圧できるという考えを示していた。現地の状況を詳しく確認したうえで、ガイガー将軍はアンガウルから第321連隊戦闘団を呼び寄せ、海兵師団に配属した。これにより、ウムルブロゴル・ポケットの包囲が現実的に可能となった。

日本軍増援の到着

9月23日、北部パラオにいる日本軍の大規模な兵力の一部が、コロール島やバベルダオブ島から舟艇でペリリュー北部へ送り込まれていることが判明した。

このため、ペリリュー北部とガブドスの攻略を急ぐ必要が強まった。海上哨戒部隊は増援を阻止するため日本軍の舟艇の一部を発見し撃破していたが、それでも敵兵の大半は、9月23日早朝に海中を歩いて上陸したとみられていた。

中川大佐は、北部ペリリューにおいて、一部損害を受けていたものの、突如として歩兵大隊の増援を得ることになった。

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